それでは、情報処理様式の変化の中での手書き文字について、簡単に踏まえておくこととします。
たとえば、小林氏はその研究*1の中ででは、欧米におけるタイプライタの存在について触れています。ワープロの普及に先駆けること約100年というの歴史が、欧米における手書きと印字機器との使い分けの文化を成熟させていると仮定します。
欧米では公的な書類にはタイプライタ・ワープロなどの印字機器によってプリントしたものを用い、プライベートなものは手書きするという使い分け文化の成熟がされていると、私はみます。書写書道教育に関わるものとして、この使い分けについても、意識しておくべきことだと考えます。
その使い分けについて、押木2が行書の重要性に関する考察の中でふれています。簡単にまとめますと、読みやすさ・美感・覚えやすさ、そして、速さ等では、手書きはワープロにかないません。ただし、用具・機器の持ち運びや書き始めるまでの準備時間などの簡便さ、そして個性という点では、手書きの方が有利です。
このように考えると、たとえば電話を受けつつのメモであるとか、ノート・会議中のメモなどでは、手書きによっているといえると思います。
個性という点では、はんこからサインへという、国際化に伴った変化があり、さきほどのプライベートレターとビジネスレターの問題も考えられます。書写教育においても、将来的には、サインについて積極的な個性表現の方法についての検討がおこなわれるようになるかも知れません。
またその人らしい文字を書くという意味から、典型としての手本を重視した学習から、本人が書く文字からスタートする書写教育という、個性を無視することのない学習が必要かと思われます。
さらに、印字機器により表現の均一化が進むことで、芸術・個性表現の再評価、すなわち書の表現の重視が進むという考え方もできるはずです。これら、個性化・国際化については、近年の教育思潮とも相通ずることだと思います。