東京書籍 ニューサポート掲載1996

――行書指導の実践は日本の文字を左右する――

 
 
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 二十一世紀の日本人の文字環境はどうなるのだろうか。その鍵を握るのは、ひとつに中学校における行書指導であるように感じられてならない。こんなふうに思わせられる出来事がこのところ多い。しかも、それらは国際的な場で実感させられているのである。

 先日、アメリカ人の留学生に、私の書いた拙い英文のチェックを依頼した。「日本人は、ビジネス以外の個人的な手紙にもワープロを用いることがある」という原文が、彼女の修正版では、「日本人は…個人的な手紙でも、いつもワープロを用いる」となっていた。「sometimes」が「always」 に直されていたのである。さっそく、彼女を呼びだして尋ねたところ、いわく、「日本人はこころを込めて字を書くと聞いていた。でも、日本の友だちが私にくれる手紙はいつもワープロだ」、とのこと。留学生である彼女にとって、日本人の友だちはよほど冷たい人種に映ったに違いない。欧米では、あれだけタイプライターやワープロが普及しているにも関わらず、ビジネスレターはタイプライターやワープロ、プライベートレターは手書きするという習慣がある。

 その少し前、私はカナダで開かれた手書き文字に関する国際学会(International GRAPHONOMICS Society)に参加した。さまざまな発表が行われた中で、個人的な興味と関心から、コンピュータによる筆跡鑑定に関する各国の発表を聞いた。コンピュータで誰のサインかを鑑定するシステムの研究である。一般的に言って、 コンピュータで文字を扱う研究は、日本が先端をいっているといって過言ではな い。当日の発表においても、日本の研究は非常にレベルの高いものであった。しかし、その結果は、今一歩なのである。なぜか? なんとそれは、日本人のサイン(もちろん漢字で書いた)は、まねしやすい。イコール個性がないからなのだ。「字は人をあらわす」のではなかったのか。

 さて、漢字の発達は、石碑など正式な場面で書かれる書体と、手紙など日常の場面で用いられる書体とが平行して進んだ。前者の代表が「楷書」であり、後者の代表が「行書」といえよう。楷書では、主として読みやすさや正確さが重視されたのに対して、行書は、書きやすさ、その人らしさ(個性や感情の表現)が重視されたといえる。

 「行書」が書きやすい書体であっても、その書き方を知らなければ、「書きやすく」書けないのは道理なのである。一方、ゆっくりでも正確に書けることを目指した書体の「楷書」を速く書こうとすれば、汚い字になるのも当然であろう。たとえば、個人的なノートなどでは、正確さよりも、書きやすさ、速さが求められるであろう。さほど正確さが求められるわけでもない友人への手紙なども、気楽に書きやすく書けた方がよい。さらに、プライベートな手紙などに、個性が出しやすいとしたなら願ってもないことである。

 現代では、正確さにおいて、手書きはワープロにかなわない。だからといってすべてワープロにしたほうがよろしい、となるだろうか。先ほどのサインについてみると、欧米人のサインがまねしにくいのは、筆記体で書かれているからである。日本人が皆カナクギ流の楷書でサインしていては、個性のあるサインなどしようもない。自分らしいサインも出来ない人種になってしまう。

 書きやすく個性が出やすい行書の学習が、十分行われなければ、日本は「その人らしく、こころを込めて書く」という点まで、世界最低の国になりかねない。多少論理の飛躍があるにしても、あながち的外れとは言えないだろう。

 果たして、日本の文字の将来は?