行書の意味と科学的解釈

-行書とは何か、そしてどう書くか-

押木秀樹   


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 このところ、私はあちこちでまた様々な文章で、行書の重要性を説明するとともに、中学校における行書指導の欠如から生ずる問題などについて、お話ししています。そんなこともあってか、次のような質問を受けることも少なくありません。

 これに対して、どのような答えをしたら良いか、その時その時の質問者にあわせてお答えしている次第です。ここでは、多少回り道になるかも知れませんが、順を追って説明していきたいと思います。次のような順番でお話ししましょう。

 これでも要約していますので、どうぞ最後までおつきあい下さい。行書の現代的意義押木的解釈については、あまり他の本などでは見られないようです。是非、この部分は読んでいただきたいと思います。

 まず、参考のために、『書写指導 中学校編』(書写書道教育学会編、萱原書房)から、行書の特徴をまとめたものを引用しておきます。この表についてはとりあえず飛ばし、文章を読んだ後で見直してもらっても良いと思います。

 言語性規範性点画筆使い字形筆順
楷書読みやすいが、速書きには不適画一的直線的・角張っている一画一画が明確・連続や省略がない整斉・構築的原則的には一定
行書読みやすさを保ちつつ、速書きに適する画一的でない曲線的・丸み止め・はね・はらい等が変化、連続省略あり楷書に準ずるが流動的楷書に準ずるが流動的



図1-通行書体としての歴史

行書とは何か-歴史的に見た場合-

 時たま、「楷書をくずしたのが行書、その行書をもっとくずしたのが草書」といった説明を目にすることがあります。しかし、これは明らかにまちがいです。特に、行書をくずしても草書にはならないと考えて下さい。また、楷書をくずすと行書になるというのは、ある部分では当たっていますが、正確には正しくないことになります。それは、なぜでしょうか?

 まず、左の図をご覧下さい。書体という言葉を広義でとらえると、篆書・隷書・楷書・行書・草書の5つに分けることができます。もっとも、この分類も現代の視点から見てのことで、厳密に分けることはできません。しかしまあ、難しい問題はこっちに置いておいて話を進めましょう。この5つの書体は、二つに分けることができると考えます。一つは正式な場面に使ういわゆる正書体、もう一つは事務作業・自分ためのメモ・書簡などに使ういわゆる通行書体です。(通行字体という概念もありますが、とりあえずパス!) 正書体は、篆書・隷書・楷書、通行書体は行書・草書となります。

 手書き文字・漢字の歴史は、現在のところ約3000年と考えられますが、それぞれの時代に正書体と通行書体が存在していたといって良いと思います。もちろん、途中経過ですから、書体として完成していたとは言い切れません。さて次にこの流れは、「正書体が完成すると、略されて通行書体ができた」のでしょうか、それとも「日頃使われる通行書体が完成に近づくにつれて、正書体として認められるようになった(正書体に影響を与えた)」のいずれの考え方が正しいと思われますか。実際には、後者が正解といってよいと思います。そうです。正式な場面で使う書体は、格式を重んじるためか伝統が重視され、なかなか変わろうとしません。それに対して、普段庶民(といっても時代によって異なるが)が用いる書体の方は、使いやすいようにどんどん変化し、おそらく歯止めが効かなかったものと思われます。また、行書の完成期は、楷書の発達期と一致しているので近い関係にありますが、草書の発達期はそれとずれています。そのため、楷書・行書をいくらくずしても草書にはなりませんし、草書を読むためには草書自体を覚えなければならないということになります。

 最初の問題に戻ると、楷書をくずすと行書になりますが、発達の順序からすれば、行書の完成の方が早く、それが正書体に影響を与え、楷書の完成に繋がったと考えるべきでしょう。そして、ここで覚えておいていただきたいのは、正書体と通行書体が各時代併存して来たという事実なのです。(日本、江戸時代などを除く)



行書の現代的意義

 さて、「昔の話はどうでも良い」とか、「私にはいずれにしても必要ない」とおっしゃる方もいらっしゃることでしょう。次に、行書の現代における意義について、お話ししたいと思います。というのは、特に現代は手書き文字として楷書より行書の方が重要だと思えるからなのです。

 ワープロが普及する前は、いわゆる「文字を活字にする」こと、すなわち印刷用字形である明朝体にするのは、大変なことでした。印刷物か、そうでなければ公用文書の和文タイプで打たれたものくらいしかなかったわけです。そのため、比較的正式なものや、個人的な印刷物などまで、手で書く必要がありました。だから、多少時間がかかっても、読みやすく整っている楷書を書く必要があちこちにありました。特に学校の教師などは、印刷にガリ版を使う必要から、活字的な字を書く技を持っていました。しかし、今やそういった用途にはワープロがあります。当然TrueTypeFontを使えば、プロの印刷と変わらない表現が出来るわけです。この手の文字を読む機会は、これまで以上に増してくるでしょう。しかしこういった文字を、手で書く必要はほとんどなくなってきたといっても過言ではないでしょう。

 先ほどの歴史の話からすると、正書体を手で書く必要が極端に減少し、残る手書き文字の用途から通行書体だけが生き残るのといった時代に入っているように思うのです。では、なぜ通行書体として行書は有効なのか、その点をご説明いたしましょう。



図2-書きやすさの例

書きやすさから

 まず行書は、通行書体であり、日頃急いで書く必要性やくたびれずにたくさん楽に書くといった必要性の中で発達した書体です。ですから書きやすいのは当然といえるでしょう。

 たとえば右の図のように、書きにくい「はらい」などが省略されます。楷書にははらいがあるわけですが、そのはらいのある形のまま、速く書こうとすれば、字が汚くなっても当然です。ですから、最初から楽な形で覚えてしまった方が、そこそこ整った字が、楽に速く書けるということになるのです。なお、これ以外の書きやすさについては、最後の<押木的解釈>のところで詳しく説明します。



図3-読みやすさ-草書と行書

読みやすさから

 ところが、書きやすいという意味では、草書の方が圧倒的に速く書けるのではないかと思います。右の図をご覧下さい。ところが、読めなきゃしょうがないわけですね。左は、「草書」と書いてあります。これが何の予備知識なしで読めたら、その秘訣を知りたいくらいです。その点、行書はまず読めるはずです。そういう意味では、書きやすさと読みやすさのバランス的にも優れていると言えるのではないでしょうか。



図4-署名としての必要性

個性の問題から

 さらに、国際化が叫ばれている(^^;;)現代ですが、その中でクレジットカードやトラベラーズチェックのカウンターサインの使用も増え、また印鑑からの脱皮の必要性も時たま話題に上ります。私の別の文章にも書きましたが、日本におけるコンピュータによる筆者の識別(鑑定)技術は、世界的にもトップレベルです。それなのに、実際に試験をしてみるとあまり良い成績とは言えません。コンピュータは簡単に、偽筆のサインにだまされてしまいます。それは私などが見ても、日本人の(漢字の)サインはかな釘流のものが多くて、一本一本まねしていけば、簡単にまねが出来るようなサインだからだと思われます。右の図のように、ある程度連続した曲線的なサインはまねしにくいはずです。その意味からも、行書の連続性・曲線性が意味を持つように思います。




行書の指導と学習

 それでは、次に行書をどのように指導し、学習するかという点に話を進めていきたいと思います。どうして、楷書をくずすと行書になるといった発想が生まれてくるのでしょうか。それは、現代の書写指導において先に楷書を十分に習得した上で、行書の習得に入るからだと考えられます。ちなみに、江戸時代には行草書が正式書体だったりした関係から、明治期には行書を先に習っていた時期もあります。また、そもそも現代の中学校で十分な行書指導がなされているかというと、実際のところ疑問でもあります。

 要するに、歴史的には、

    --- 行書の発達 ----> 完成
     ------ 楷書の発達 ------> 完成

という順になるわけですが、指導の順序は、

   楷書の習得 ------> 行書の習得

という順でおこなわれることと、

    一斉授業における効率化

という必要性から、いかに楷書を行書として書けるようにするかという方法で授業がおこなわれているわけです。



行書の学習項目

図5-学習項目一覧  「理屈はどうでもいいから、書き方を教えて、、」というかた、お待たせしました。実際に楷書を行書とするためにはどうしたらよいか、という視点で整理されたものを紹介しておきます。右の表は、『書写指導(中学校編)』を参考にまとめたものですが、多くの本はおおよそこのような形をとっています。詳しくは、同書や書店にてわかりやすくまとめてあるものを購入していただけたらと思います。

 さてはじめに気を付けていただきたいのは、行書の学習は運動の学習だということです。このような形・特徴になるように練習するというよりも、書いた結果がこのようになると考えるべき点が多数あります。このことについては、次の項で詳述しましょう。まず、行書らしい線が引けること、これは自習は難しいかも知れませんが、表の基本点画になります。点画の変化として、「はらいをとめに」する終筆の変化、「はらいを横画」にする方向の変化、また「木」と書くべきところを「ホ」にする時などの許容の問題などを学びます。なお「木->ホ」など扁や旁を中心とした部分形については、一覧表などを元に覚えてしまうと、楽になると思います。

 次に、スムーズに速く書く必要性から、線がつながるにせよつながらないにせよ、点画(点や線)から次の点画への運動がなめらかでなければなりません。それが、点画の連続になります。後述しますが、無理矢理このように連続させようという意識よりも、書いているうちにつながっちゃったというような感じが望ましいと思います。一方、右の表の「元」のような場合は、かなり意図的に連続させることになりますが、このような連続させやすいパターンは、やはり覚えてしまう必要があるでしょう。さらに、省略筆順の変化については、部分形のパターンとして覚えることになります。このページには載せきれませんので、市販の参考書を購入して下さいね。




学習の押木的解釈

 前項では、一般的にいわれている行書の学習項目についてふれました。しかし、その中で考え方・発想を変えた方が良いように思われる部分もあります。またその意味を理解して学習しないといけないと思われる部分もあります。たとえば、中学生の書き初めコンクールの練習風景などを見ておりまして、あれ?と思うことがあります。もちろんこの場合は毛筆の話です。行書は前述のように、楽にスムーズに速く書けるという特徴があり、芸術家を目指す人などを別にすれば、その特徴を学習することが大切だと思われます。ところが、子供たちは、手本そっくりに書けるようにするためか、一画ごとに硯で筆を直し、手本を見直して書いていたりするのです。なめらかに連続しなければ意味がありません。それなのに、一画一画書いていたのでは、行書の学習にならないのではないでしょうか。いえ、もちろん学習の初歩の段階では、そういったことも必要でしょう。しかし、十分行書らしい線が書ける子供たちまでが、そういった練習をしていることも少なからず見受けられるのです。果たしてこれで、使える行書が身に付くのでしょうか? その意味からも、行書の特徴を私なりに解釈しておきたいと思うのです。これを子供たちに教えるかどうかは別問題として、教える側の先生には知っておいて欲しいと思います。以下、次の点から説明していきたいと思います。



上下方向の運動量の減少(ショックの低下)-連続の問題-

図6-連続-上下動の低下  「行書はつなげて書く」と思っている人も多いかも知れません。ところが、伝統的な古典の行書を見ても、いつも連続して書いているとは限りませんし、意外と目に見える連続は少ないものです。まず前述のように、大切なのはスムーズな運動です。この点は、後述の「運動要素」とも関係します。さて、特に子供たちは、手本の字の点画がつながっていると、その通りに連続させて書こうとします。しかし、私はこればかりに着目するのは間違いではないかと考えています。

 右の図をご覧下さい。図の一番上、楷書の線の場合は、かなりはっきりした筆記具の上下動がおこなわれます。右のグラフは、上下動と筆圧についての模式図(本物は未発表)ですが、おおよそ納得していただけるだろうと思います。このような書き方は、上下動に時間がかかりますし、手に掛かるショックも大きく、速く楽に書くという点からは適当なものとは言えません。それに対して、二番目の行書的な線の場合は、上下動および筆圧の変化が比較的なめらかで、手にも負担が少ないと考えられます。そのかわり、運動のコントロールは多少難しくなり、こつを要することでしょう。すなわち、行書は運動のコントロールを学習することにより、手に負担をかけずに速く書けるようにするとのだといえるでしょう。

 もちろん、どんどんこの変化をなめらかにし、変化量も少なくしていけば楽には違いありません。しかし、逆に読みにくくなっていってしまうことでしょう。図の三番目のように、上下動が極端に少なくなった結果が、実線による連続になります。行書の特徴である連続という要素は、実は連続させるということよりも、上下動の減少・スムーズ化を進めた結果、本来浮かすべきところが、浮ききれなかった結果だととらえた方が良いというのが私の意見です。ですから、最初からつなげることを目指すのではなく、上下動の少ないなめらかな運動を目指して学習すべきだと思います。なお、先ほどの「元」などは、後述する水平方向の移動量の減少として考えるべきかも知れませんので、分けて考えていただきたいと思います。



図7-装飾的要素の減少

装飾的要素の減少(機能性要素)

 つぎに、「終筆の変化」という項目が何を意味するか考えてみます。私は別の文章で、「はらいがあってもなくても読める」ということを書きました。文字の持つもっとも大切な要素は、その文字を見たときにその字種が判別できるということだと思います。その字種判別に関わらない字形特徴装飾的要素と捉えます。

 右の図の「大」のはらい、「化」のはねなどは、この装飾的要素と考えることができます。そして行書の場合、これらの装飾的要素を省略して書くことが見られるというわけです。人間は、長い歴史の中で、機能的に必要なものとそうでないものとをより分けて来たと考えるべきだと思います。「大」「化」のはらいやはねは、下の隷書の例を見ていただけたらわかるとおり、装飾的要素(波磔)として発達したものと思われます。

 同じ「はね」でも、「化」と「木」「月」では違うと考えられます。「化」の場合は、上に跳ね上げても意味がなく、装飾的要素と考えられます。(横書きになると違うかも) しかし、「木」「月」では、隷書になかったはねが逆に行書になると見られるのです。楷書と比較した場合、「木」では逆にはねがあり、「月」では変化なしです。これらは、「機能性のはね」と考えられます。縦画を書いた後、次の点画に移動する際に、先に示した「上下動の減少」が起こったと理解すれば、話は分かりやすいのではないかと思います。筆記具が紙から離れる前に、次の画へと移動した結果、その形状が「はね」になったというわけです



図8-運動要素の減少

運動要素の減少

 さて、「木 -> ホ」という変化や、「風」に見られる方向の変化はどのような理由から起きているのでしょうか? 別の文章で述べていますが、漢字の書字運動でもっとも多く見られる運動は、右の図の「Z型運動」と「十型運動」と言えるでしょう。

 字を書く際には、運動のパターンができるだけ少ない方が楽なはずです。子供の字を見ると、「よ・は」といったむすびと、「す」などのむすびを同じような形状で書く例からも理解できるでしょう。そのため行書では、もっとも多いパターン、すなわち「Z型運動」と「十型運動」にしてしまおうという淘汰が働いているように思います。

 右の図の「六」「果」「風」を実際に手を動かして試してみると、納得していただけるのではないかと思います。


図9-運動要素の減少例  さらに、この運動は、実によく使われています。字を見ているだけではそれほど見つからないかも知れませんが、実際に意識して書いてみるとわかるはずです。右の図では、Z型運動を赤、十型運動を青で書いてみたものです。



図10-水平移動量の短縮

水平移動量の短縮

 最後にもっともわかりやすい例を挙げておきます。先ほどの「元」という字の連続は、おなじ連続でも、上下動の減少では片づけることができませんでした。これは、右の図の「北」のように水平方向の移動量を減らしている結果だと考えたら良いでしょう。当然、移動量が減ればそれだけエネルギーも小さく、速く書けることになります。




 さて、以上行書の意味と学習、そして私なりの解釈を説明してきました。いかがでしたでしょう? 現代において行書の意義は大きくなっていることを理解していただき、また指導する側はもちろん、学習する側もある程度の年齢以上ならば、その原理・理屈を理解した上で学んで欲しいと思うわけです。

(1997.06.15)

本稿は、論文として刊行済みです。現代における行書の意義と解釈をご参照下さい。