『上越教育大学 国語研究』第12号(1998)

現代における行書の意義と解釈

押木秀樹   

 

 


  1. はじめに

 行書について、次のような質問を受けることも少なくない。

 これらの認識は、正しいと言い切れるであろうか。行書は、中学校書写指導における主要な内容になっているが、残念ながら知識面・技能面において十分な指導がなされているとは言えない状況がある。また中学校国語担当の教師のすべてが、行書に対して十分な認識があるとは言えないように感じられる。

 一方、書体として字形上・字体上一つのスタイルが確立される背景には、そのスタイルに合理性があるからだと考えられる。たとえば、図1における言語性の欄に記載されている事項もその一つである。本稿では、行書の成立について確認し、行書が持つ合理性が現代においても有効であるか否かを考察するとともに、その合理性を現代的に解釈することにより、行書指導の重要性について問いかけたい。以上の内容を次の順で、述べていくこととする。

 

 

言語性

規範性

点画

筆使い

楷書

読みやすいが、速書きには不適

画一的

直線的・角張っている

一画一画が明確・連続や省略がない

行書

読みやすさを保ちつつ、速書きに適する

画一的でない

曲線的・丸み

止め・はね・はらい等が変化、連続省略あり

 

字形

筆順

楷書

整斉・構築的

原則的には一定

行書

楷書に準ずるが流動的

楷書に準ずるが流動的


 なお本稿は、書写教育研究者ではない一般の国語教師を視野に入れ記すこととする。そのため、すでに衆知の内容を整理した部分、前記項目のA・Cを含むことと、冗長な部分があることをお許しいただきたい。本稿における独自性の高い部分は、B・Dとなる。このうち、Bは押木の研究方法論に提示されている内容から、行書について焦点化したものである。さらに、項目Dは筆者の仮説によっており、仮説→検証型の論文ではないことをあらかじめおことわりしておく。その意味で、本稿は行書の検証型研究のテーマを提示するものであるともいえよう。

 

2.行書を歴史的に見た場合

 時たま、「楷書をくずしたのが行書、その行書をもっとくずしたのが草書」といった理解をしている場合が見られるが、これは必ずしも正しいとは言えない。特に、行書をくずしても多くの場合草書にはならない。また、楷書をくずすと行書になるというのは、ある部分で妥当な表現であるが、その発達過程からすると正しくない。

 図2をご覧いただきたい。手書き文字の書体を大まかに分類すると、篆書・隷書・楷書・行書・草書の5つに分けることができる。もっとも、この分類も現代の視点から見てのことであるし、また本来的にいって厳密に分けることはできない。なぜなら書体は字形上確立されたスタイルを分類したものであり、字体上の差異がある場合はともかく、それがない場合は分類に明確な基準を持たないからである。本稿では、大まかな分類により話を進める。

 この5つの書体は、二つに分けることができる。一つは正式な場面に使ういわゆる正書体、もう一つは事務作業・メモ・書簡などに使ういわゆる通行書体である。(通行字体という概念もあるが本稿の趣旨と異なるため省略する。) 正書体は、篆書・隷書・楷書、通行書体は行書・草書となる。

 手書き文字・漢字の歴史は現在のところ約3000年とされるが、それぞれの時代に正書体と通行書体が存在していたと考えられる。特に篆書の初期・中期をのぞいてその存在を確認することができる。もちろん、歴史的に見ると書体の発達過程には、現在分類されるような形での書体が成立していない時期もあるが、機能的には正書体・通行書体があったという意味である。

 さて、書体の発達過程については、「正書体が完成すると、略されて通行書体ができた」のであろうか、それとも「日頃使われる通行書体が完成に近づくにつれて、正書体として認められるようになった(正書体に影響を与えた)」のいずれの考え方が正しいであろうか。文字史・書法史上からみて、後者が正解といってよい。正式な場面で使う書体は、格式を重んじるためか伝統が重視され、なかなか変わろうとしない。それに対して、日常用いられる書体の方は使いやすいように変化し、仮に歯止めをかけようとしても効かなかったのであろうと思われる。また、行書の完成期は、楷書の発達期と一致しているので字体的にも近い関係にあるが、草書の発達期はそれに先駆けているため字体の相違が多い。そのため、楷書・行書をいくらくずしても草書にはならないし、草書を読むためには草書の字体を覚えなければならない。

 最初の問題に戻ると、楷書をくずすと行書になるのはほぼ間違いないが、発達の順序からすれば、行書の完成の方が早く、それが正書体に影響を与え、楷書の完成に繋がったと考えるべきであろう。この点に加え、日本の江戸時代など特殊な時期を除き、正書体と通行書体が各時代併存して来たという事実を押さえておきたい。

3.行書の現代的意義

 歴史的な認識は本稿の主旨ではなく、それが現代においてどういう意味を持つかが重要である。現在正式な場面ではワープロで印字されることが多くなっている。また前述のように、各時代において正書体と通行書体とが常に併存していた。この2点から何が言えるであろうか。単純に考えると、ワープロから印字される文字は明朝体の楷書が主であり正書体であるから、正書体を手書きする必要性は減少しており、主として学習し用いるべき書体は、通行体である行書と考えることができる。

 ワープロが普及する前は、いわゆる「文字を活字にする」こと、すなわち印刷用書体である明朝体にするのは大変なことであった。印刷物か、そうでなければ和文タイプで打たれたものくらいしかなかったため、比較的正式なものは多少時間がかかっても、読みやすく整っている楷書で書く必要があった。たとえば学校の教師などは、印刷にガリ版を使う必要から、活字的な字を書く技を持っていた。しかし、今やそういった用途にはワープロがあり、ベクトルフォントを使えば、プロの印刷とそう変わらない表現が出来る。

 正書体を手で書く必要が極端に減少し、残る手書き文字の用途から通行書体が本来重視される状況にあると考えられる。もちろん、現実はそう単純でなく、認識する側からも、読むために漢字を覚える必要性を考慮しなければならない。以下、書字する側からもう少し具体的に考察してみたい。

  1.  書きやすさから
  2.  まず行書は、日頃急いで書く必要性や書く際の疲労を押さえるといった必要性の中で発達した書体であり、書きやすいのは当然といえよう。

     たとえば図3のように、「はらい」などが省略される。これ以外の書きやすさについては、後に詳しく述べる。

  3.  読みやすさから
  4.  次に読みやすさという視点から見た場合、行書に比べ楷書の方がすぐれていると考えられる。しかし、実際に運用される場合は常にその通りであるとは限らない。たとえば、前述の楷書は装飾的に美しく感じられる。しかし、はらいを美しく書くためには、省略する場合に比べ時間がかかる。そのはらいのある形のまま、速く書こうとすれば、字が汚くなるということも十分に考えられる。楷書が、本来時間をかけても美しさと読みやすさを優先させた書体だととらえたとき、それを速く書こうとしても機能的に無理が生じるということである。速く書く必要があるなら、本来その機能を持った書体、行書を用いた方が逆に読みやすくなることも十分あり得る。

     一方、書きやすいという意味では、草書の方が圧倒的に速く書けるであろう。ところが、図4のように認識する側、読むということを考慮に入れたときに問題が生じる。左は「草書」と書いてあるわけだが、これを楷書の字体の知識のみで読むことは不可能であろう。その点、行書は楷書の字体の理解があれば読めるはずであり、書きやすさと読みやすさのバランス的にも優れていると言える。

  5. 個性の問題から
  6.  さらに、情報化・国際化が叫ばれている現代において、我々の日常生活における情報化の波の一つとして電子マネーの実験がおこなわれ、同様に国際化という面では、クレジットカードやトラベラーズチェックのカウンターサインの使用も増え、また印鑑からの脱皮の必要性も時たま話題にのぼる。手書き文字が関係するのは、このうちサインの問題である。

     サインの自動識別のための技術開発も進められつつある。日本のコンピュータによる筆者の識別(鑑定)技術は、世界的にもトップレベルといえよう。それなのに、実際に試験をしてみるとあまり良い成績とは言えず、コンピュータは偽筆のサインにだまされてしまう。これは、吉村の指摘するように日本人に限らずサインを意識的に学習していない場合に見られることのようである。主観的に観察すると、日本人の(漢字の)サインはいわゆるかな釘流のものが多く、一本一本まねしていけば、簡単にまねが出来るようなサインだからだと思われる。図5のように、ある程度連続した曲線的なサインはまねしにくいはずである。その意味からも、行書の連続性・曲線性が意味を持つように思われる。

     

    4.行書の指導と学習項目

    1.  書体の学習順序
    2.  行書をどのように指導し、学習するかという点に話を進めたい。まず、どうして楷書をくずすと行書になるといった発想が生まれてくるのであろうか。その理由の一つは、現代の書写指導では先に楷書を習得した上で、行書の習得に入るからだと考えられる。ちなみに、江戸時代に行草書が正式書体であった関係から、明治期には行書を先に習っていた時期もある。

       発達過程からみると、行書の発達と完成が早く、行書の完成期と平行して楷書が発達したのに対し、現代の指導の順序は「楷書の習得→行書の習得」の順でおこなわれる。また「一斉授業における効率化」の必要性などから、習得済みの楷書を基礎として行書を書けるようにするという方法で授業がおこなわれているわけである。

    3.  行書の学習項目
    4.  具体的な学習内容を確認しておく。『書写指導(中学校編)』を参考に、習得済みの楷書を基礎として行書を学習するための項目を整理したものが図6である。多くの本はおおよそこのような形をとっている。

       一項目ずつ確認していく。まず、行書らしい線が引けること、これが図6の基本点画に該当する。これは自習が難しい項目と言えよう。次に「はらいをとめに」する終筆の変化、「はらいを横画」にする方向の変化、また「木」と書くべきところを「ホ」にする時などの許容の問題などを学ぶことになる。なお「木-ホ」など扁や旁を中心とした部分形については、覚える必要があろう。

       さらにスムーズに速く書く必要性から、線がつながるにせよつながらないにせよ、点画(点や線)から次の点画への運動がなめらかでなければならない。それが、点画の連続になる。後述するが、無理やり連続させようという意識よりも、書いているうちにつながったというような感じが望ましいと思われる。一方、図の「元」のような場合は、かなり意図的に連続させることになる。このような連続のパターンに加え、省略や筆順の変化については、部分形のパターンとして覚える必要がある。

       さて、書字の学習、特に行書の学習は運動の学習である。本来、図6のような特徴を練習するというよりも、書いた結果が図のようになるよう練習すべき点が多数ある。このことについては、次の項で詳述する。

    5.行書の本質について

     前項では、一般的にいわれている行書の学習項目について確認した。しかし、筆者は、発想を変えた方が良いように思われる部分、またその意味を理解して学習しないと誤解を招きやすい部分があると考えている。たとえば、中学生の書き初めコンクールの練習(毛筆)風景などを見ている際に、首を傾げることがある。行書は前述のように、楽にスムーズに速く書けるという特徴があり、芸術家を目指す人などを別にすれば、合理的な特徴を学習することが大切だと思われる。ところが、子供たちは、手本そっくりに書けることをめざすためか、一画ごとに硯で筆を直し、手本を見直して書いていたりする。一画一画書いていたのでは、行書の学習にならない。もちろん学習の初歩の段階、たとえば前述の部分形のパターンを覚える学習などではそのような学習も必要であろう。しかし、常にそのような学習をしていたのでは、行書の合理性の習得にはつながらない。その意味からも、行書の特徴を私なりに解釈しておきたい。これを子供たちに教えるかどうかは別問題として、教える側の教師には理解しておいて欲しいと思う。

      1.上下方向の運動量の減少 (ショックの低下・連続の問題)

       まず先の要素から「連続」について考察する。「行書はつなげて書く」と思っている人は多いかも知れない。ところが、伝統的な古典の行書を見ても、必ずしも連続して書いているとは限らないし、意外と目に見える連続は少ない。後述の「運動要素」とも関係するが、本来重視すべきなのは連続することではなく、スムーズな運動だと考える。特に子供たちは、手本の字の点画がつながっているとその通りに連続させて書こうとするが、こればかりに着目するのは不適切ではないだろうか。

       筆者はこの問題について、「連続」としてではなく、「筆記具の上下動の減少」と理解すべきではないかと考えている。図7は、筆記具の上下動と筆圧に関するイメージ図である。もちろん実際測定したものではなく、また意図的にわかりやすく表現している。図の一番上、楷書の線の場合、かなりはっきりした筆記具の上下動がおこなわれると想像される。このような書き方は、上下動に時間がかかり、手に掛かるショックも大きく、速く楽に書くという点からは適当なものとは言えない。それに対して、二番目の行書的な線の場合は、上下動および筆圧の変化が比較的なめらかで、手にも負担が少ないと想像される。そのかわり、運動のコントロールは多少難しくなり、こつを要することであろう。すなわち、行書は運動のコントロールを学習することにより、手に負担をかけずに速く書けるようにするものだと筆者は考える。

       もちろん、変化を一層なめらかにし、変化量も少なくしていけば楽には違いない。しかし、図の三番目のように、上下動が極端に少なくなった結果が、実線による連続になり、この場合読みにくくなってしまうことは明白である。

       行書の特徴である連続という要素は、実は連続させるということよりも、上下動の減少・スムーズ化を進めた結果、本来浮かすべきところが、浮ききれなかった結果だととらえた方が良いというのが筆者の見解である。したがって、最初からつなげることを目指すのではなく、上下動の少ないなめらかな運動を目指して学習すべきだと思われる。なお、前述の学習項目の例のうち「元」などは、後述する水平方向の移動量の減少として考えるべきであろう。

      2. 装飾的要素の減少(機能性要素)

       

       つぎに、「終筆の変化」という項目が何を意味するか考えてみる。先に挙げた図3の例にもどるまでもなく、左右の斜め方向の点画において、はらいがあってもなくても読めるのは当然であろう。文字のもっとも大切な要素は、その文字を見たときにその字種が判別できることだと考えられる。その字種判別に関わらない字形特徴を装飾的要素と捉える。

       図8の「大」のはらい、「化」のはねなどは、下の隷書の例を見ていただけたらわかるとおり、装飾的要素(波磔)として発達したと考えられる。そして行書の場合、これらの装飾的要素を省略して書くことが見られる。人間は、長い歴史の中で、機能的に必要なものとそうでないものとをより分けて来たと考えられる。

       一方、同じ「はね」でも、「化」と「木へん」「月」では違う。「化」の場合は、上に跳ね上げても意味がなく(伝統的に縦書きと限定する)、装飾的要素と考えられる。しかし、「木へん」「月」では、隷書になかったはねが逆に行書になると見られる。これらは、「機能性のはね」と考えられる。楷書と比較した場合、「木へん」では行書にはねがあり、「月」では変化なしである。「木へん」は「手へん」との混同の危険性があること、「月」は装飾的に問題がなかったことなどの差であると推測できる。これら装飾性のはねと機能性のはねの問題については、堀らによってある程度実証的な結果を得ている。この「機能性のはね」を運動としてみた場合、ある画を書いた後次の画に移動する際に、先に示した「上下動の減少」が起こったと理解すべきであろう。筆記具が紙から離れる前に、次の画へと移動した結果、その形状が「はね」になったとも言える。

      3. 運動要素の減少

       さて、「木→ホ」という変化や、「風」に見られる方向の変化はどのような理由から起きているのであろうか? 

       字を書く際に、できるだけ運動のパターンを少なくした方が楽に書字できるであろうことは、すでに出雲崎らによって指摘されている。子供の字を見ると、「よ・は」といったむすびと、「す」などのむすびを同じような形状で書く例からも理解できる。行書では、もっとも多いパターンである図9の「Z型運動」と「十型運動」への淘汰が働いているように思われる。 右の図の「六」「果」「風」を実際に手を動かして試してみると、納得していただけるだろう。

       さらにこの運動は、すでに押木が指摘しているとおり漢字書字運動のかなりの部分を占める。図10にその例を示す。


      4. 水平移動量の短縮

 先に提示した「元」という字の連続は、おなじ連続でも、上下動の減少では説明しきれない部分を含んでいた。これは、図11の「北」のように水平方向の移動量を減らしている結果だと考えられる。当然、移動量が減ればそれだけエネルギーも小さく、速く書けることになる。

6.まとめ

 以上、行書の意味と学習についてまとめるとともに、筆者なりの解釈をしてきた。一つには、現代において行書の意義が大きくなることはあっても、減少するのは非合理的だということである。二点目としては、現在の行書の学習項目は出来上がった字形によって説明される部分も多くその合理性が理解しにくいが、運動などからとらえ直すことにより合理性の認識が増すのではないかということである。

 特に「自分は楷書さえうまく書けないのに、行書など学習することもない」といった意見が聞かれるが、それはまったく逆ではないだろうか。装飾性の要素などの点において、書字が難しい楷書よりも、機能的要素が優先され運動要素がある程度淘汰されている行書の方が容易だと思われるからである。以上のような点について、指導する側はもちろん、学習する側もある程度の年齢以上ならば、その存在理由・合理性を理解した上で学んで欲しいと思う。