相田みつをとコミュニケーションコード Date: 2005-12-29 (Thu) 
 相田みつをの書は、ちまたにあふれているといっても過言ではないだろう。一方で、相田みつをの書をどう評価し、どう取り扱ったらよいのかという点について、真っ正面から論じたものを見かけないのはなぜだろうか。この点、そろそろ目を背けていてはいけないのではないかと思いつつある。これからの手書き文字の運用において、重要な要素があるのではないかと考えるからである。

 相田みつをについては、2001年、糸井重里氏らとの対談*1におけるある発言が思い浮かぶ。以下のことばは、出席者の意見ではないことを明記した上で引用しよう。「ある目のきく人にいわせると、相田みつをの字は詐欺だっていうのね。ある程度書ける人なのに、こういうふうに書くと大衆のウケがいいだろうと…。」というものであり、それに対して、私は何と対応して良いかわからなかったことを思い出す。
 たまたま上越教育大学では2005年11月に文化講演会として、相田一人氏による「一生勉強一生青春〜父相田みつをの人生〜」があり、聞かせてもらう機会があった。そして、12月になって東京フォーラムにある相田みつを美術館に足を運んだ。
 相田みつをについて知るのは、世間で見かけるカレンダー等の字、相田一人氏の講演内容、相田みつを美術館でいくつかの作品を見たというだけである。であるから、思い違いもあるだろうし、深い考察はできない。しかし、直感的に得られたものを記しておきたいと思った。以下は、その程度のものであることをご理解いただきたい。ただし、これからの手書き文字の運用において重要な点があるかも知れないと考えている。

 なぜ相田みつをの作品が、これだけ世間で見られるようになったのだろうか。その理由としては、ご子息の相田一人氏の手腕、商業的成功に導く手腕が、かなり大きいと予想される。ただ、誤解をまねかないように、2点述べておく必要がある。一つは、おそらく相田一人氏が商業的成功を求めて、相田みつをを紹介したのではないだろうということである。父の作品が本当に良いものだと確信して、もしくは本当に良いものなら世間の人の心の糧となるであろうと確信してのことだと思っている。もう一つは、いかに相田一人氏の手腕が良くても、相田みつをの作品が「世間の人の心の糧」となるものでなければ、決してこうはならなかったであろうということである。

 では、なぜ相田みつをの作品が、これだけ出回る結果となったのであろうか。本稿の主題は文字の表現にあるが、文章の点から文字の表現に話を進める。

 文章、まず書かれていることばの背景にあるのではないかと直感した。相田みつをの作品のことばは、仏教思想によるところが大きいようだ。まず、独りよがりではないことが重要だと思われる。
 仏教における「法にのっとり 比喩を用い 因縁を語るべし」ということばを、永六輔氏があるテレビ番組で、井上ひさしの「むずかしいことをやさしく やさしいことを深く 深いことをおもしろく」という表現で説明していた。(論の展開上の必要により一部を引用することを、お許し願います。)
 相田みつをの作品のことばは、おそらくこのことの実践であろうと思われる。自身の体験と、それを支える仏教上の思想とを、やさしく表現した。すなわち、インドの言語を、中国の言語に置き換えるというコミュニケーションコードの変換と同様に、さらにそれを現代大衆のコミュニケーションコードへと変換することを目指したものと理解すると良いのではないだろうか。「大衆のウケがいいだろうと…」と考えたのではなく、どうしたら伝わるかということを真摯に考えた結果が、多くの人の目を通しても、決して「詐欺」だとは写らなかったと考えると納得できそうである。宗教的基盤と、コミュニケーションコードという点とが私の現在到っているとところである。

 では、あの字はどうなのであろうか。先のある人のことば「相田みつをの字は詐欺だっていうのね。ある程度書ける人なのに、こういうふうに書くと大衆のウケがいいだろうと…。」を思い出してみたい。文章の内容が、コミュニケーションコードの変換であるなら、文字の表現もコミュニケーションコードという視点で考えると、納得できるのではないだろうか。何らかの価値あるもの、価値あると信じるものを伝える際に、できるだけ伝わりやすくするには、どうしたらよいだろうか。その願い。それが、ウケ狙いとの違いかも知れない。コミュニケーションレベルと、コミュニケーションコードとの違いなのかも知れない。
 書においては、わかりやすくいえば楷書は唐代の皇帝が納得するコードをギリギリのレベルで求めてきたし、行書は東晋時代の貴族のコードをより高いレベルで求めてきた。貴族や皇帝のコードとレベルは、かなり高い相関を持っていたはずである。一方で、大衆のコードは、必ずしもレベルの高さを伴わなかったとはいえないだろうか。コミュニケーションコードは大衆に近いものを、そしてレベルは高いものを。そう求めたのが、相田みつをということはできないだろうか。大衆に近いコミュニケーションコードでありながら、コミュニケーションレベルは高い、そういった点で相田みつをは、スタート地点に過ぎないのか、それともゴールに近いところあるのか。今、それすらもわからないということではないだろうか。

 これからの手書きの文字の運用について考えていく上で、「コミュニケーション」ということばが適切かどうかわからないが、コードとレベルとを分けて考えていくことが必要かも知れないと思っている。

◎お願い

 上記に関連する図書・論考を求めています。相田みつをに関係する図書は多く、どれから読むべきかわかりません。もし、「あそこに似たようなことが書いてあったよ!」といった情報があれば、お知らせいただけませんでしょうか。よろしくお願い申し上げます。

・蛇足1

 相田みつをの考え方の中に「がんばらない」があるそうだ。あるがままの自分を認め、その置かれた状況の中でより善さを求める、そういった仏教的思想なのかも知れない。貴族や皇帝の暮らしを求めず善さを求める、それが文字の表現や文章にもあらわれているのだろうか。

・蛇足2

 音楽では、コードとレベル、コードはジャンルとなっているが、それらは別物であると認められているのではないだろうか。

*1 「婦人公論井戸端会議 字に自信はありますか?」,『婦人公論』2001年3/22号,2001

[前頁]  [次頁]

 トップ  検索  (管理用)

- Column HTML -