書の時間性〜押木的考察〜 Date: 2005-12-02 (Fri) 
 デジタル等なんらかの処理をされた情報が多い時代において、絵画にしても書にしても、人が触り、悩み考え、体を動かしたそのものが、作品といえます。たとえば、学生らと研修旅行をしていますが、昨年は空海の肉筆を見、今年は最澄の肉筆をみました。書としてすばらしいものです。一方、書を見慣れない学生でも、空海や最澄が触った紙であり
手を動かして書いた跡であることからの感動は、間違いなく持ちます。その意味で、絵画も書も、生きた作者の跡といえるだろうと思います。

 ただ、絵画の場合は、一般にどこから描き始めて、どこで描き終えて完成としたかは、わかりません。それに対して、書の場合は、(たとえば緊張感を持って)書き始め、書き終えて(たとえば安堵した)といった順序がわかります。筆を持って書いたことのある人ならば、その過程を作品を見ながら擬似的に追体験できるという特徴があります。すなわち、作者の体の動きを1次元多い形で感じ取ることが出来るという特徴があるわけです。

 「書く」という一般的な体験と、「書」とを結びつけることのしやすい漢字文化圏の人なら、意識的にせよ無意識的にせよ、単なる視覚芸術ではないことを認識しやすいと思います。一方、そうではない人にとって、意外と見過ごされやすい点といえるのではないかと思います。

 この点については、従来より語られていますが、大野修作氏は狂草の成立に関する説明において、「書を通して詩文を演奏しているのであって、他人の詩文を書くことが中心になっている…」*1としています。大野氏のように詩文を曲、書く活動を演奏と対照させても良いでしょうが、「詩文を歌詞、字形や構成という曲を作って、運筆することが演奏(歌うこと)」*2と対照させることもできるかも知れません。

*1 大野「書学を学ぶ人のために」連載第16回/『書道美術新聞』第812号
*2 押木「確かな学力の育成を目指した指導の工夫・改善(書道)」
   /『中等教育資料』H17.6月号

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