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中越地震1ヶ月-中間地点から- |
Date: 2004-11-24 (Wed) |
2004年10月23日(土)の新潟県中越地震直後から、当方のwebの表紙に以下の文章を掲載していました。
「2004新潟県中越地震」につきまして、ご心配いただき
ありがとうございます。上越市は震度5とのことでしたが、
上越教育大学に目立った被害はありませんでした。中越地
区の皆様の一日も早い日常の回復をお祈りいたします。
11月23日で1ヶ月となり、川口や小千谷の復旧を祈る気持ちは変わらないものの、表紙からこの掲示を削除することにしました。それにかわり、このエッセイ欄に少し書いておきたいと思いました。
最初に、私どもの研究室や上越教育大学に対してご心配下さいました皆様にお礼申し上げます。上越教育大学も、上越市も大きな被害がなくすみました。
1. 上越教育大学と上越市の当日について
私は本震の際、研究室にいました。窓は中越、柏崎方向に向いていますが、その窓から落雷のような感じがして、次の瞬間、パソコンの画面に寸断のようなちらつきを感じました。その次の瞬間に揺れがやって来ました。地震の揺れの伝搬より、震源に近いところの停電による電圧異常が、早く届いたということなのでしょうか。
揺れはじめの際、すぐに止まるかと思ったのですが、だんだん強くなる感じがして、さすがに机の下に隠れました。揺れがおおよそ収まった段階でテレビをつけましたが、まだ表示がされておらず、とりあえず自宅にtel。この時には、私のPHSから自宅のIP電話へとすぐにつながりました。電話で(上越市内の)自宅もひどい状態ではないことを確認した頃、テレビから中越地方を震源とする地震であることを知り、震源地付近はかなりひどい地震であると思えました。この間、おそらく3分程度だと思います。
廊下にでて、学生はどうしているだろうと思って様子をみると、すでに他の教員が確認を終えていました。学生にも、他の教員にも被害なし。細かな余震があったため、テレビをつけた状態で、様子をうかがっていましたが、18:40頃に大きな余震が発生。また机の下に隠れました。このとき、研究室の本棚から、本が10冊程度落ちました。後で確認したところ、上越市大手町で震度5強を観測していますので、上越市ではこれがもっとも大きな揺れだったわけです。これも後でわかりましたが、学内の渡り廊下と校舎との継ぎ目からコンクリートの破片が落ち、継ぎ目のアルミパネル?がグニャグニャしていました。学内の建物については、その程度の被害のはずです。またこの研究室は4階ですが、8階ではかなり本が落ちたと聞きました。
本を片づけ、学生らの様子を再確認し(自宅へ電話したいのにつながらないなどの話を聞き)、自宅へ向かいました。途中、JRのダイヤの乱れで遮断機が上がらず、立体交差の道を選択しました。また、用事があってコンビニエンスストアに寄りましたが、夕食の直前の揺れで調理が心配な人が多かったためか、弁当類が売り切れていました。
自宅は、不安定な状態で棚の上に置いておいた時計が落ちて割れていたこと、棚の一番上に置いておいたネットワーク機器・無線Lanの装置が落ちていた程度です。
なお翌日から、上越教育大学では被災地の大学等への支援活動を始まり、学生・教員の中にもボランティアの活動を始めた人もいましたが、私は直接関わりませんでした。私の生まれたのが比較的震源に近い川西町であり、十日町も含め親戚が多いので、その様子を確認したり、震源に近いところに住むゼミ関係の学生への連絡などをした程度です。
2. 1週間後に川西町・十日町にうかがって
川西町・十日町に、1週間後の10/31にでかけてきました。何かお手伝いしたい気持ちはあったものの、10軒ほど回りましたので、何かお手伝いができたかというと、何もできなかったのですが、、。
中里村から十日町市に入ると、道に亀裂があったり、家の外に車を泊めてそこで暮らしているといった震災地の雰囲気が見えてきました。具体的には、マンホールの口が飛び出ていること、石垣が崩れていること、特に道の橋との継ぎ目がひどいように感じました。
わが家の墓にいってみたところ、墓地の中で墓石が落ちてしまっているものがいくつかありました。十日町市では、かなり落ちたということですから、まだ揺れは少なかったのかも知れません。わが家の墓は、ずれただけで落ちてはいませんでした。たまたま居合わせた隣のお墓の人に手伝ってもらい、余震があっても落ちない程度まで動かしました。墓地を守ってくれているお地蔵様も転んでいました、、。
川西町の幹線道路も、途中で通行止めになっていました。そのための迂回路にも、段差や亀裂がありましたが、地震後一週間にして砂利をいれるなどの応急措置がなされていました。
小千谷市に最も近い親戚の家では、棚が倒れて中のものが散乱し、風呂とトイレは使えない状態になったとのこと。一週間で、居間は散乱したものを片づけて住めるようにしたこと、風呂は従姉妹らが協力して仮に入れるようにしたとのことでしたが、トイレはまだ使えない状況でした。この家で、本震時に小千谷市にいた従姉妹にあいましたが、額に倒れてきたものがあたったということで顔を腫らしていました。
そして、この家で被災された親戚は、「電気が来るまでの数日間は、このあたりもかなりひどいと思っていたが、テレビが見られるようになって、川口・小千谷の人は気の毒だと思った。」と話してくれました。上越市はかなり揺れたとはいえ目に見える被害はほとんどなかったわけですが、その私の目からすれば、この家もかなりひどい被害に遭ったように思えます。しかし、その人たちから見ても、震源地付近の人の大変さを案じていました。
1週間たっていましたが、昼は家の中にいても、夜に寝る際には車の中という家もありました。
3.まとめ
最大で震度5強とはいえ、上越市は大きな被害がありませんでした。それでも、多くの皆さんが心配してくださって、ずいぶんとお見舞いのe-mailをいただきました。ありがたいことです!
そして、私の場合は被災地にいる卒業生や、親戚のことを心配し、情報収集などをしていました。(結果として大して役には立てませんでしたが。)さらに、小千谷市に近い親戚などでも電気の復旧後は、さらに被害のひどい地域のことを心配しているという構図を感じました。
これだけ大きな地震であるにもかかわらず、倒壊した家屋が少なめだったのは、耐雪構造の家だったからではないかとテレビで流れていました。一方、耐雪構造が必要なほどの雪の季節が目の前に来ています。倒壊した家、危険なため戻れない家、集落ごと離れざるを得ない地域の皆さんにとっては、その季節となってしまいました。雪の量を知るものの一人として、そのあたりが気になる、、、でも日々の仕事に追われている、、という状況です。
※20年くらい前になるでしょうか、川西町で群発地震が起きていました。
あの時の調査結果はどうだったのでしょうか。
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