速記と手で書くこと Date: 2004-11-12 (Fri) 
 以前より、学生などから速記について質問されることがありましたが、まったく知識がなかったため、何も答えられずにいました。これを機に、『速記と情報社会―古代ローマから21世紀へ』という本を読んでみようと思ったら、なんと絶版とのこと。たまたま、速記をされ、また非常に詳しい方からお話を伺うことができました。
 詳しいこともわからずになんですが、第一印象で思ったことを書きたいと思います。上記の本も入手できそうですので、読み終えたら新たな文章を書くか、この文章を訂正するかも知れません。

 今、速記も難しい立場にあるようです。それは、機械式の速記の導入と、コンピュータによる(少なくともこれまでの概念における)速記以外の方法の開発の可能性に起因しているようです。

 第1段階としては、1本の筆記具で書いていた状態から、同時複数打鍵による機械速記になるようです。両手を使えるという点では、かなりの変化のように推測します。一方、片手の5本の指を使うという点では、スティック状のものを動かすということも、人間が発達してきた過程におけるかなり根源的な、合理的な動作なのかも知れないと思っています。

 第1段階’は、機械速記の内容をコンピュータに直接入れてしまうという段階といえそうです。このためには、同時複数打鍵のようなデジタル情報であることが効果的なのだと思います。逆に言えば、筆記具で書いた曲線を、通常の文字情報に復元する処理がいかに難しいか、また現在の計算機の処理方法が人間の処理といかに異なるものであるかを示しているように思います。ただ、オフライン認識(書き上がった紙を元に反訳する)は難しいでしょうが、オンライン認識であれば、案外可能性が高いかも知れないと思います。もちろん、それを開発するということは、キーボード入力に勝る利点が必要なのかも知れません。

 第2段階として、音声入力的方向性になるのでしょうか。現在の音声入力的発想やノイズ処理的発想から、音像の空間認識や声の特性からスタートするレベルまで達しないと難しいのではないかと想像します。

 通常の書字の場合、記録であっても伝達のようなコミュニケーションであっても、そこに存在する非言語的要素を、意識的に無意識的に感じていると思います。欧米でプライベートレターを手書きする習慣なども、そのあらわれだと考えます。この部分は、言語の伝達・記録という合理性のみでは説明できない部分であり、手書きすることの意味が存在し続けるであろう理由ともいえます。
 一方、速記の場合、必要なのが言語の伝達・記録という言語的要素のみであるとすれば、現在の問題が100%以上技術的にクリアされたら、現在の速記は不要になると考えてよいのでしょうか。

 あるwebサイトで、リアルタイムの落語速記の話が載っています。最終的に明朝体などに変換されるとしても、その笑いという情報とその背景となる抑揚や間といったものを、伝統的な速記では記録しておくことができる、それを時間をかけて印刷用字形に換えていけば良いということなのだと思いました。
 素人がイメージできるのは、反訳において読点をどこに挟むかといった程度ですが、概念として理解できそうです。また、ユーザーとして見たときには、自分の話している調子を、どれだけ書線に盛り込んでもらっているかというのが、気になります。ベテランの速記者は、そういったところがうまいということもあるのかなと推測されます。

 音声には、単純な言語の記号としての要素の他に、様々な情報が盛り込まれています。そのことは、多くの人々が理解し意識しているはずです。一方、文字に関しては、まだまだ認識されることが少ないと思います。その意味で、速記は音声言語に非常に近い形で情報を記録できる、文字・記号なのだと思います。
 そのようそを分析することは、手書き文字のポテンシャルを検討する上で、意義があることかも知れないと思います。


余談:
 機械式タイプライターの味わいや、活字印刷の味わいがなくなったことに対しても、残念だという人もいますね。楽器のキーボードのようなニュアンスの表現が、実はこれらによる文字による表現にもあり得たのかも知れない、、などと、ふと思いました。

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