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手書き文字とりんごの味と

 私の信州暮らしも、通算六年になろうとしている。信州の秋から冬は寒くてかなわないのであるが、りんごが大好きな私にとって、この季節は楽しみでもある。そのりんごであるが、子供の頃に比べ「うまく」なったと思うのは、私の気のせいであろうか。

 りんごも、毎年品種改良がなされているはずである。私が気になるのは、昨年のりんごと今年のものとを、どうやって比較したらよいかという問題である。一本の木にどれだけの数の実をつけることができたか。一つの実をどれだけ大きくすることができたか。そして、どれだけうまくなったのか。

 りんご同様、人間の変化もいろいろな形で、とらえることができる。体重や身長は、測定も簡単だし、数値としてあらわれるので比較も容易である。では、国語力はどのようにとらえたらよいか。現在どこの学校でも当たり前のように、国語力をペーパーテストで点数化している。誰が最初に考えついたか知らないが、画期的なこととは言えないか。それでは、国語科の中の書写はどうなのだろうか。

 書写は、理解と訓練とを中心とする学習でありながら、その評価は曖昧になりがちである。教育現場では、厄介であっても、常に厳密な評価が必要であるとは限らない。それに対し、教科教育学の研究となると話は別である。学習効果や実態把握のために、客観的な評価ができるか否か、また書写力の具体的内容が明確にできているか否かが、重要なポイントとなる。私が大学院に入学した頃から、手書き文字の測定・評価に関する研究をしているのは、そんな気持ちがあってのことである。

 私の研究では、手書き文字の字形をできるだけ客観的に評価するための道具として、コンピューターを用いている。当初私の研究は、コンピューターを使っていることばかりが注目される傾向にあった。実際には、コンピューターはものさしや秤のようなものであり、そのものさしを使って、何をどう測るかが問題なのである。たとえば、文字が正しい位置に書けているかどうかを測定するには、何をどのように測ったら良いだろうか。こんな単純に思えることさえも、りんごの数や大きさとは違う次元のようである。

 また、測定結果をどのように解釈するかも、大きな問題である。学生時代に、ある先生が索引作りの話として、「同訓・同音の語句を取り出して並べるだけなら小学生でもできる、如何に意義分類し配列すれば良いかが大切なのである」、という主旨の話をして下さった。字形の評価の例として文字の大きさを考えてみよう。文字を囲む正方形の面積を測ることは、簡単である。しかし、それだけでは、文字の大きさが適切であるかどうかという判断はできない。

 今、私の研究の段階を例えるなら、りんごの実の重さや数を計り、糖度を測定するといった程度である。糖度が高いだけで、りんごが美味しければ、こんな簡単なことはない。文字も同じである。「うまさ」などというものは、そう簡単に表現できるものではあるまい。よく、筆記具の動きが大切だから、それを測定できないかとか、書芸術としての文字は測定できないのか、などという質問をうける。確かに筆速などは測定できるのであるが、その解釈となると想像もつかない。ましてや、書芸術としての文字を解釈するとなると、異次元のことのように思える。

 自分自身筆を持つ立場にもある私としては、りんごにしても書にしても、本当のうまさは人間の主観だけが味わい得るものにしておきたい気もする。一方、研究者としては、うまさをも明らかにしてみたい欲求に駆られるが、それは遥か遠い先のことになりそうである。

 詳しくは、以下の文献のご参照をお願いしたい。

・「書道研究」1990.5号(萱原書房)

・「書写書道教育研究」一・二・五号(全国大学書写書道教育学会、美術新聞社刊)


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