書写を学習する意義の確認

―必要な書写力が育成できているか―

 
 
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書写の授業と日常のギャップ

 書写の授業と日常文字を書く際とで、文字を書く意識や速度の差は、どの程度であろうか。小学校高学年あたりから、書写の時間は丁寧にゆっくりと書いても、通常のノートなどでは速く書かざるを得ず、子どもたち自身もそこに落差があることに気付いているようである。中学生になると、「字は読めたらよい」「書写は好きな生徒がやればよい」といった意識を持つ場合があると指摘されている。

教師にとっての書写の価値

 このような問題が発生する場合、学習目標と児童生徒の実態とにずれが生じていることもあり得る。また、教師の設定する学習内容や評価方法によっても起こり得る。村松氏の「話す・聞く」学習についての提言、モノローグ型の活動の場合には、子どものことばが絶えず評価の対象とされ、話すことは正しく答えることだという刷り込みがうそっぽさにつながるのだという指摘とも似ている。(ニューサポート2001年1月発行No.10)
 もっとも、学習指導要領の枠外とはいえ、毛筆による書字には芸術・伝統・精神といったものが意識的・無意識的に存在していることも事実であろう。このため、芸術うんぬんといったところに価値をもつ教師であれば、それを価値として指導をおこなうこともできる。一方、それらに価値を感じられない場合は、教師自身でさえ、書写の授業そのものに疑問を感じてしまうこともあり得るだろう。

書写能力の必要性

 このところ、中学校の国語の先生方とお話をしていて、気になったことが二つある。 一つは、テストの記述問題の字が汚くて読みにくいという話。テストの採点の時期などに、同僚と字の読みにくさについて愚痴ったことがあったが、字を読みやすくしてあげるのは、(教科としては)国語の教師しかいないということに気付いたと語っておられた。
 もう一つは、ノートの取り方の話。生徒によってノートの取り方のうまい子とそうでない子とがいるという。教師が黒板に書く内容を書き写す際にも、見出しや重要な点は目立つように工夫したり、また箇条書きなどではその構造に応じて適切に判断して書いている子は良いのだと。中学生に対して、ノートの取り方はいつどの場面で教えてあげるのか。書写の指導事項に、「配列・配置などに考慮し」という文言があることに気付いたが、これらをノートの取り方の学習につなげられないのかとのことであった。

必要な力の育成

 手で文字を書く学習の構造をシンプルに考えれば、「読みやすさ」「書きやすさ」「美しさ」と学習の難易度とで、どの要素を重視して学習するのかと捉えることできる。
 教師の側でこれらの要素の持つ価値を意識することなく、単に「行書を書かせる」では、生徒が価値や必要性を認識できないのは当然であろう。学習指導要領の文言からすれば「…読みやすく速く書く」という、バランスのとれた書字を実現することが、先に述べたテストの字を読みやすくすることそのものともいえるはずである。
 また読みやすさと「配列・配置」の関係の例として、字間や行間の整え方、封筒・便せんなど書式に適した書き方などは、書写の指導を取り出した計画内で可能であろう。一方、内容とも関わらせた指導、「書くこと」の領域との関連指導も、言語事項としての書写学習を有効に機能させると考えられる。
 本当に必要な書写の力を育成できているか、たとえば「話すこと・聞くこと」の領域であっても、聞きながらメモを取るといった書写に必要な力が養われているか、課題の再確認をしてみたいと思うのである。


『ニューサポート 中学国語・書写』(東書教育情報)(2000-4)