手書き文字の変化と合理性の理解

−辻氏「国語という大切な幹」*1を読んで−

押木秀樹

 学生らにも人気の作家、辻仁成氏の文章 と同じ紙面に、私の文章を載せてもらうことができた。辻氏の内容は、言語の変化についてであり、「超**」といった表現やら抜き言葉についてもふれられている。私自身うっかり学生らにつられてこれらの表現を使ってしまうことも興味の理由であるが、手書き文字の変化について興味を持っている者としても、興味深く読ませていただいた。現代は、メディアの変化から言語自体も変容しやすい時代といえよう。それ以上に、手書き文字の場合は、「筆記具の変化」「横書きへの移行」「ワープロ、ネットワークの普及」といった大きな変化にさらされている。これらの変化は、はね・はらいの不明確化、払いを中心とした終筆方向の変化などにあらわれている。*2 以下、辻氏の文章を読みながら、私自身「果たして手書き文字に置き換えたらどうだろうか」という思いから記すものである。

 辻氏の主張の一つとして、次のような箇所がある。

> 言葉とは時代を映す鏡であって、歴史という濾過器の中を言葉が
> 通過して生存できたなら、それはもう立派な日本語として
> 認めるべきでしょう。

 まずこの点、手書き文字にも当てはまるものであると考える。いま私たちがお手本としているような字形/書き方は、長い歴史の中で淘汰され洗練された「書きやすく・読みやすく・好感が持てる」ものであると思う。また、そのお手本のような文字が、横書きが主流になった時代に、それを反映する形で変化することも十分考えられる。

> 小説家として出来るだけ保守的にその流れに対抗していこうと
> 考えています。そうすることで、日本語の変化に猶予を
> あたえるのです。

 私自身の基本的な立場としては、時代の流れには逆らえないし、変化が時代を反映したものである以上、それを食い止めることはまず不可能ではないかと考えている。しかし、字形/言語といった文化は、歴史「濾過器」を通過する過程で何らかの合理性また美しさといった基準によって洗練されてきたはずである。それらの持つ合理性を理解し、美しさの理由を知ろうとすることも必要なのではないだろうか。たとえば、<横画を右上がりに書くこと>にも、<筆順>にも合理性があるわけである。*3 とすれば、変化に猶予を与えるのと同じように、それらの意味を理解する余裕があっても良いのではないだろうか。洗練されていない不要な変化を容認することで、合理性を失っては損失である。現在の学校教育における書写では、その合理性を認識するという部分があまりに軽視されているような気がしてならない。

> ロックミュージシャンでもある私がこんな保守的な発言をするのは
> ちょっと奇妙に響くかもしれませんが、変化を拒んでいるのではなく、
> 言葉に関しては急ぎすぎるのは危険だと心のどこかでブレーキを
> かけているにすぎないのです。

 私は辻氏のような著名人ではないし、もちろんロックミュージシャンでもないが、書写教育の世界では、進んでる方だと認識されていると思う。コンピュータを用いた研究をしているためであろう。その私が伝統にこだわるのも妙な感じがするかも知れないが、伝統を理論的に理解しようとしないことや、合理性を無視した指導には異を唱えたくなるということなのである。それらがなされないうちに、字形/書き方が変化することにはブレーキをかけたくなってしまう。

> 日本語は世界に誇れる美しい言語だと思うのです。その言葉を
> 守ることが、日本の経済や文化の進歩を遅らせることには
> 繋がらないと私は言い切ることができます。

 そう、漢字・かなといった日本の文字は、世界に誇れる美しい手書き文字だと思う。ただし、私はワープロ・ネットワークの普及について是非推し進めてしていくべきだと考えている。それは、日本の経済や文化の進歩に繋がるであろう。ただし、そういった時代だからこそ、伝統的な手書き文字を理解し、その時代に即したものにしていくための理解と指導が必要だと主張したいのである。






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