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書道研究とコンピューター

教育学部国語教室 押木秀樹

 私の研究室には、筆墨硯紙に代表される書道用具や石碑の拓本・法帖類が当然のように並んでいる。また一方、机の上にはパソコンが置かれている。もちろん、書道の教官でもワープロくらい使って当たり前だが、それがネットワークに接続されているとか、ワークステーションや汎用機を使っているとなると少々事情が違ってくるようで、「なぜ書道の人が?」という質問が飛んでくることになる。

 広く書道の研究といっても、古典書跡・新出土資料や書論を扱う書学書道史研究、小中学校での国語科書写と高等学校での芸術科書道などの教育に関する書写書道教育研究、さらに書写教育の基礎として現代人の書く文字を対象とする研究もある。それらの研究で、ある文字群と別の文字群の字形を比較する場合がある。A群とB群とが本当に異なる特徴を持つかについて目で見て比較した場合、誰もが異なるという結論になればよいが、場合によってはある人は異なると言い、別の人は区別できないと言うかも知れない。芸術作品の鑑賞ならともかく、研究としては済まされない問題である。単純に2群の平均値を求め、有意差の検定をすれば良いことであっても、字形の特徴の数値化は容易ではない。 私が初めてコンピューターに触れたのは、今から十年余り前のことになる。NECのパソコンでいえば、PC8801がまだビジネスマシンとしての位置づけで、PC9801はすごく速いぞなどと言っていたころである。当時私はある地方大学の学部学生であったが、ちょうど大学の汎用機が新しくなり、私のいた学部でもTSSでM240Hが使えるようになった。私も好奇心からコンピューターに関する授業を受講したが、バッチジョブには慣れている先生もTSSをすぐに使いこなすというわけにはいかなかったようで、我々学生もメーカーの分厚いマニュアルと悪戦苦闘して、BASICやSPSSを使ってみることになった。今から思えば、わけもわからぬジョブ制御文などをよく書いていたものだと思うが、あの素人にはわかりにくいマニュアルを読んだことは、大変勉強になった。

 その当時、書道に関する論文・出版物で、字形を数値化した例としては、物差しと分度器を用いて人力測定している例が報告されている程度であった。私も卒業研究の一部として、物差し・分度器を使って特徴の把握をこころみている。当時扱っていた中国の書跡のうち、北魏時代の楷書の代表作とされる張猛龍碑(西暦522年)と唐代の代表作である九成宮醴泉銘(西暦632年)とを比べると、横画の角度において前者は右上がりが強く後者は比較的水平であるとか、「十」のように横画に縦画が交わる場合において前者は横画の左部分が長く( )後者は右部分が長い( )といった特徴を抽出できる程度であった。手で計測するのは非常に手間がかかるため、目で見て主観的にここが違うと思う点を計測するのが精一杯である。せめて、物差しなどを用いて計った数値であっても、その処理にはコンピューターを用いたいと思った。そのころ学部学生が自由に使えるパソコンはPC8801が数台しかなく、ふさがっていることが多かった。TSS端末の方は、わかりやすいマニュアルが作られていなかったこともあり、がらがらであった。私はごく少量の単純な計算に汎用機を用いていたのであるから、パソコンが普及した今から思えばナンセンスな話である。

 その後大学院に進むころ、情報処理の画像処理の技術、文字認識の手法が字形の研究に使えることがわかった。文字認識・筆者識別の基礎研究をされていた吉村ミツ先生に出会ったのが、そのころである。名古屋大学計算機センターにおいて、見ず知らずの私に、FORTRANによる文字認識用のプログラミングを一からご指導下さった吉村先生には、今思っても頭が下がる。基礎特徴量として、文字の上下左右端や中心などが簡単に測定でき、また細線化・折れ線近似などの構造解析手法で特徴点の座標を抜き出すことができるようになり、物差し・分度器から解放された。たとえば、<書>という字には8本の横方向への線があるが、この8本の線は右上がりになっている。一般には、平行に書くときれいだと言われているが、多くの名跡の<書>の横画は平行ではなく、上から3本目までは( )の傾向があり3本目から5本目は( )の傾向がある。分度器を用いて多数の字からこういった傾向を抽出するのは、大変な作業である。また文字の重心、特に重心の左右の位置が、時代によってある傾向をもっていることなども把握できた。この重心などは、物差しでは測ることのできなかったものである。あえてコンピューターを用いないとすれば、厚紙を文字の形に切り抜き、それを一点で支持してバランスを計るといった方法を採らざる得なかったものである。

 物差し・分度器から開放されたとはいえ、名古屋大学センターではグラフィック表示のできる端末があるものの、その使い方が初心者には難しく、こんなことなら物差し・分度器で計った方が早いのではといった思いが頭をかすめたのも事実である。さらに、私の在学した単科大学のコンピューターシステムではグラフィック表示ができなかったため、128*128ドットで扱っていた文字を135桁のラインプリンターの幅一杯を使って印字させないと全体を見ることができず、膨大な量のプリントアウトをしていたのを思い出す。また名大センターで1秒以下の処理が、母校のM160Fでは10分以上もかかるとか、母校で画像処理をしている教官がいないのは当然としても、磁気テープを使ったことのある人がいなかったので、またもや素人にはわかりにくく分厚いマニュアルと格闘する日々であった。

 修士課程修了後、しばらく大学から離れ高校の教師をしていた期間がある。そのころは、汎用機が簡単には使えなかったため、個人のパソコン(PC9801VM)で処理をせざるを得なかった。母校の汎用機は遅いとはいえ、それでも10分20分単位で処理していたものが、パソコンでは1日2日単位になり、しかもまだハードディスクがなかったので、仕事にいく前にフロッピーディスクをセットして出かけ、帰ってくると次のディスクに差し替える、夜はディスクドライブの音がうるさくて眠れないといった有り様であった。

 さて字形の話に戻したい。文字の重心について先に触れたが、重心を計るといっても、それは物理的な意味での重心に過ぎない。それが、人間が感じる重心(もしくは中心)と必ずしも一致するとは限らない。一致する方が稀かもしれない。残念ながら修士課程在学中は、物理的な意味での特徴に限定せざるを得なかった。しかし、意外に早く、人間の感覚に近い特徴把握の必要に迫られることになった。母校の工学部で「中途失明者のための文字手書き支援システム」の開発のために、手書き文字の品質(?)を評価する必要が生じたためである。

 この「評価」の研究ではワークステーションを使ったのだが、私はアイディアを出すだけで、具体的なプログラミングは工学部におまかせという形になり、大いに助かった。ただ、人間の感覚と近い数値を取り出す作業は、単純に分類できればよいといった研究と違い、かなり難しい問題をともなうこととなる。具体的には、人間に主観評価をしてもらい、一方計算機で特徴のデータを抽出する。そして、計算機が抽出したデータから、人間の評価に近いデータを選び出して、多変量解析等をおこなうという手順をとった。まず第一段階としては、学習者に手本を示してそれを練習してもらうことを想定し、学習者の書いた文字が手本と近いか否かを評価することを目標とした。しかし、極めて単純な特徴でさえ、物理的に容易に捉えられる特徴量では、なかなか人間の評価と一致しない。たとえばもっとも単純な評価項目として文字の大きさを例にあげよう。文字の外接方形の面積( )を計算するのは、なにも考えずにできるわけだが、これが人間の大きさの感覚と一致するとは限らない。外接する多角形を求める( )、文字のおおよその部分を大きさとする( )などから始まって多数の方法を組み合わせて実験することになる。できることなら、字種に左右されない特徴量であることがのぞましく、たとえばひらがなと漢字で、また同じ漢字でも画数の少ないもの(例−大)と多いもの(例−議)で、おなじ評価値を用いたい。単純に思える大きさに関しても、なかなか思ったような結果がでず、複雑な部分に関する評価はさらにむずかしい。字形の評価といっても現状はまだまだ低次元である。次の段階では視覚心理学を学び、それを取り入れる(もしくは視覚心理学の人との共同研究をする?)、また手本と近いか否かで判断するのではなく、人間が「読みやすいと感じる」「好感を感じる」「美しいと感じる」手書き文字とはいかなるものなのか、そのような文字の構造を探る方向へも進めてみたいと考えている。

 金沢大学に着任して二年になるが、現在もこの研究を続けている。コンピューターによる処理は、当初母校の工学部のワークステーション上のみでおこなってきた。その段階でも、KAINSによってメールが利用できるため、一般的な連絡はもちろんのことデータの転送などにも、ずいぶん便利に使わせてもらってきた。現在は、こちらのコンピューターでも処理ができるようにしたいと思っている。この4月に教育学部にもイーサネットが張られ、私はセンターのicews1を使わせていただいている。残念ながら、端末はパソコンにボードを差したもの、文字表示のみのキャラクター端末であって、文字といっても手書き文字の字形の表示が可能なグラフィック端末ではない。直接的に字形の研究には使えないのであるが、表示は研究室のパソコンのプログラムでおこない、時間がかかる処理はワークステーションにftpしておこなってみようかなどと思っている。  私が学生時代に、メーカーの分厚いマニュアルを苦労して読んだのに比べたら、KAINSはKAINS独自のマニュアルがずいぶん作成されていて、比較的初心者でも取っつきやすいように思う。一般のユーザーそして初心者も、使用体験記などを書くことにより、マニュアル類の更なる充実が可能であろう。私自身も含め、自分の研究で精一杯の状況ではあるが、後に使う人が同じ苦労をしなくても済むよう、相互に協力しあう必要があると思う。

 最後に、本稿はKUIPCの原稿だということで、コンピューターに関することのみ書いたが、もちろん私は平生書道・書写書道教育の授業をしている。いわゆる書道屋の私ごときでも、コンピューターくらい使えるのであるから、食わず嫌いの皆さんもメールくらい使われてみるとその便利さがわかるのではないかと思う。

 そうそう、確かに私はキーボードを叩いている時間も少なくないですが、筆を握って作品も書いています。お忘れなく.....

(1993.11 金沢大学総合情報処理センター報)

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