日本人の文字意識と書写指導(!草稿!)

-日本人の半分近くは字が下手か?-

押木秀樹


(はじめに)

 本稿では、次の二つの質問に答えるとともに、 この点から書写指導を考えてみたいと思います。

(大学生の半分近くは字が下手か?)

 私どもでは、大学生を対象とした、手書き文字の意識調査をおこなっております。その中の一つの質問として、「あなたは自分自身で、字が上手だと思うか、下手だと思うか?」という問いに対し、「上手だ やや上手な方だ どちらでもない やや下手な方だ 下手な方だ」といった選択肢を用意します。この結果はどのようになるとお考えでしょうか? 同じように、「自分は話すのが上手だと思うか、下手だと思うか?」という質問をしたらどうでしょう?

 予想としては、「どちらでもない」から「やや下手な方だ」にかけて多くの答えが分布することが予想されます。ところが、「字の上手下手」に関しては、かなり「下手」よりに分布してしまうのです。

 へた  ややへた どちらともいえない やや上手  上手
  8    33      35       24     0

(1999年4月 上越教育大学学生110人の例 パーセンテージ)

 もちろん、一般の人に対する「あなたはアイスホッケーが上手ですか?」という質問とは違います。誰もが、特に大学生の場合ほとんど毎日のように、字を書いているはずです。それなのに、この結果はいったい何なのでしょうか?

(字が下手だという理由)

 一つの理由としては、毛筆から硬筆への移行に付随する意識の問題が未だに尾を引いているという仮説が出来ます。すなわち、1900年ごろを境として、実用筆記具が毛筆から硬筆へと移行しました。この1900年直後に生まれた世代は、親の世代が毛筆も使えることを横目に見つつ成長しました。そして、毛筆ではうまく字が書けないということを、自分は字が下手であると自覚したと考えられるのです。すでに毛筆が実用筆記具の座からおりて、100年近くがたとうとしていますが、未だに毛筆が使えるくらいでないと、字がうまいとは言えないという意識が残っているとは言えないでしょうか?

 もう一つの理由として、芸術としての「書」「書道」の存在があります。毛筆が実用筆記具でなくなった現在(一部のし袋の字などは除く)でも、芸術として毛筆の表現力が用いられています。もちろん、これらの表現に携わっている人は、毛筆が使えるでしょうし、硬筆の字もうまいだろうと思います。しかし、これらの人は日本人の全人口からしたらそれほど多くはない、多かったとしても特殊だと考えても良いでしょう。そのうまさは、必ずしも「日常の書字活動」のためではありません。ですから、ごく普通に暮らしている人にとって、これらは除外して考えても良さそうです。たとえば、あなたは「歌がうまいか?」と聞かれたら、せいぜいカラオケのイメージで答えるでしょう。オペラ歌手をイメージして答える人は少ないはずです。それなのに、字の場合は、どうしても「書」「書道」のレベルを考えてしまいます。「書」は、士大夫のたしなみであり、実用の延長として芸術が存在したという長い伝統から生じているのでしょうね。

 そして、その他に謙遜しているなどという理由も考えられるでしょう。また、丁寧にゆっくり書くことを前提として成立した楷書のみを学習し、それを速書きするために字が汚くなる問題、すなわち私が主張している行書指導の欠如による問題もあるでしょう。それに加えて、私は「手本の字のみがきれいな字だという認識」が強いように思われます。いわゆる「お手本の字」「ペン習字の手本みたいな字」がきれいな字で、それ以外は下手な字だという考え方です。この点について、もう少し考えてみましょう。

(お手本のような字だけがうまいのか?)

 アンケート等で、他の人からもらう手紙の字や伝言などの字に、何を求めるかを調査するとどのような結果がでると思われますか? 結果をまとめると「ひどく読みにくくない限り」、「うまい字・きれいな字である必要はなく」、「その人らしい字であることが望ましい」となります。一方、自分の字に対しては、「きれいな字が書きたい」という結果が出るのです。他の人は、うまくなくても良いが、自分はうまくありたい。おそらくこの場合は、いわゆる「お手本みたいな字」で書きたいと考えているのだろうと思います。

 一方、大学生でもかなりの割合で、ワープロ(パソコンのワープロを含む)を所有しています。ですから、整っただけの字が書ければ良いのなら、ワープロを使えば良いわけです。また他人の字の評価よりも、自分の字の評価が低いということもあげられます。このあたりを厳密に述べるためには、さらに以下のような調査が必要です。

  文字の評価の調査
	・自身の評価 <-> 他人による評価
	・丁寧に書いたとき、速く書いたとき
	・うまく書けた字、ダメな字
	・楷書と行書
 このように考えれば、これからの日本人にとって必要なことは、読みやすく整った字であることを条件に、個性を重視していく必要があるように思われます。お手本のような字でなくとも、自分らしさに自信を持って、読みやすい字にしていくというのが、理想的な形であると私は考えます。

(個性を生かした書写指導?)

 そのためには、個性を生かせる書写指導ということを考えていかなくてはなりません。さまざまな方法が考えられるでしょうが、私はその基本を次のように考えます。

 たとえば、学校で使われている「書写の教科書」のお手本は、比較的個性のない字だといえるでしょう。古来からお手本として使われてきた古典を見ると、一言でお手本といっても、個性があります。たとえば、日本で割と用いられるお手本のスタイルは、歐陽詢・虞世南といった人たちの字に近いといえそうです。それに対して、中国では顔真卿といった人の字を元にしています。また、市販のペン習字のお手本などを見ると、かなり個性的な物もあります。しかし、「書写の教科書」のお手本の字が個性的でないのは、なぜでしょうか? 
 一つの考え方として、「できるだけ個性のない字をお手本にする」ということです。基本的な指導事項が盛り込まれているだけで、個性のない字が望ましい。要するに、「読みやすさ・整っていること」のための要素は絶対必要です。しかしそれ以上、手本を書いた人の個性を、児童生徒に押しつけることで、その子なりの個性をつぶす必要はないということなのです。

 さらに推し進めれば、お手本を使わない授業の方が望ましいでしょう! しかし、なかなか難しいことです。であれば、少なくとも「お手本」を指導するのではなく、「読みやすさ・整っていること」のための要素を、学習内容として十分とらえた上で、その内容を学習するための一つの教材として、手本を使うということになります。まだまだ、学校教育においても、「お手本」主義が強いかと思われます。私自身、それを100%否定するつもりなどまったくありません。しかし、変えていかねばならぬ部分もあるのではないでしょうか。

(とりあえず、まとめ)

 話がずいぶん脇道にそれながら進みました。「あたしは字が下手です」という方、どうぞお手本のような字だけが良い、という考えを捨て、自分の字を愛して下さい。そして、もし読みにくいとか他人に不快感を与えるかも知れないと思ったら、必要な要素の部分を学習してみて下さい。

 「お手本みたいな字はあまり好きではない」という方、自分の字において、基本的な要素がどうなっているか確認してみて下さい。

 以上が私の答えになります。

 なお、この文章をお読みになって、やはり伝統的なスタイルを重視し、それに向かって学習すべきだという意見をお持ちになった方もあるでしょう。実用と芸術の連続性、それが「書」の伝統的な特徴です。伝統とは、非常に優れた意味を持っていると、私自身も思います。もちろん、学生の中にも、そういった考え方で「硬筆の字の練習」「毛筆の練習」をしている学生が少なくありません。この点は、十分わかっています。またそれが、「書」を愛好する人の人口を増やす一つの考え方でもあるでしょう。しかし、「お手本みたいな字は、私には関係ない!」と主張する学生が増えているのではないかという実感を持っています。今後、「手書き文字嫌い」を増やさないためには、以上のような考え方も必要だということを、頭の片隅に入れておいていただけたらと思います。

(補足)

 以上をまとめるとともに、今後この文章に書き足したいことをあげておきます。

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