はらいはなぜうまく書けないか?

-手書き文字における装飾性と機能性-

押木秀樹   


 「字が下手で、はらいがうまく書けません。」
 「シャープペンシルだとはらいになりません。」
といった質問をいただきました。

 そうですね。確かに私も硬筆筆記具では、うまく<はらい>を書くことができません。鉛筆、それもBとか2Bなどという柔らかいものを使えば別ですが。しかし、日常生活においてそんな鉛筆を使っていませんし、それらを使うことに実用性があるとも思えません。

 そもそも、「はらい」とは何のためにあるのでしょうか? もし、「木」という字が、このように書いてあったら読めないでしょうか? また、「大」という字も同様です。読みやすさにおいて、さほど違いがあるとは思えません。もし、違いがあるとすれば「美しさ」くらいかも知れません。はらいの有無は、他の文字との混同すなわち識別性・機能性とは全く関係ない、装飾性のものといえるのではないでしょうか。



 ここで、歴史的に見てみましょう。秦代(B.C.200ごろ) 篆書で書かれていた頃には、はらいらしきものはありません。それが漢代、特に図に示したA.D.150ごろの隷書になると、はらいが見え始め、400年ごろの初期の楷書を経て、600年ごろに完成の域に達した楷書にもなると、私たちがイメージする「はらい」見られます。(なお、隷書の場合、似た形状のものを含め、波磔といいます。)
 うーん、この伝統から見ても、やはり文字の装飾的要素である「はらい」から、私たちは逃れられないものなのでしょうか?

 ちょっと待ってください。今、例としてあげたのはあくまで「正書体」、すなわち格式を重んじ、多少時間がかかっても美しい字を書くときに用いられた書体ではありませんか。次に、比較的普段日常的に使われた書体であるいわゆる「通行体」を見てみましょう。
 一番左は、前漢時代初期のもの(馬王堆漢墓出土資料『老子』という有名なものです)です。まずここにははらいが見られなかったり、ちょっとそれらしきものがあったりします。実は、漢代の簡牘(木簡竹簡類)を見ると、日常的に書かれたと思われる文字の中にもはらい(波磔)が見られます。それは飛ばして、、つぎの二つはおよそ行書の完成期と思われる東晋時代(350年頃)のものです。また一番右は、楷書の完成期、唐代に書かれた行書です。
 どうですか? このようにして見ると、はらいはないじゃないですか! そうなんですね。はらいが書きやすいであろう筆記具、毛筆で書いても、やはりはらいを書くのは面倒なものだったと考えられます。ですから、特別あらたまって字を書くときの書体では、ちゃんとはらいを書いて、日常的にははらいを書かずに済ましていたというわけです。


 そう、はらいがうまく書けなくても当たり前だ、と考えてください。そう思えば、気は楽になりますよね?
 しかし、もう一点注意すべき問題があります。中国そして日本人は、格式張ったときの書き方と、日常の書き方とを区別して、学習してきたのです。今の私たちは、格式張ったときの書き方、楷書ばかりに気を取られていないでしょうか? はらいがなくても、ちゃんとした形に見える書体、行書を学習せずに安心していては、やはり問題だと思うのです。
 だから、シャープペンシルではらいをうまく書くことにこだわるよりも、行書の書き方をちょっと勉強してみたらどうでしょうか?、というのが私の答えになります。



 最後に余談になりますが、いわゆる活字は楷書で作られているわけですが、その活字(写植・フォント)ではちゃんとはらっているのでしょうか? 右の図の左側、明朝体は皆さんおなじみのことと思います。ところが小学校の教科書は、右側のような教科書体で作られています。そして、小学校の書写の教科書に載っているいわゆるお手本の字も、この教科書体に準拠した形で書かれています。どうも、そうしないと教科書の検定を通らないという話も聞いたことがあります。
 さて、皆さんは医者の「医」の字の内側の「矢」の部分をはらっているでしょうか? また、「園」の12画目をはらっているでしょうか? 普通、こんな細かいところははらいませんよね。ところが、教科書体では見事にはらっています! こんなところは、行書的な止めにした方がよほど良さそうです。にも関わらず教科書体ではらっているため、はらいとして指導しているのが現状なのです。字を書く勉強、ちょっと細かく見てみると、結構気になるところがあるということも付け加えておきます。なおこのことは、別項で詳しく書きたいと思います。

(1997.05.01)



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