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七度目の引越しを終えて

−自己紹介−

 十八の歳まで、新潟県の雪深い田舎で育ちました。冬の空は暗い雲に閉ざされていましたから、春になるまで色がありません。高校三年の正月のこと、色鮮やかな外国の景色を映し出すテレビを見ながら、冬でも色のあるところに住みたいと思いました。

 初めての引越しで、その田舎から長野県松本市へ移りました。観光地としても知られるこの街は、一年中美しい景色を見せてくれました。近くは浅間温泉・美ケ原・安曇野、ちょっと足を伸ばして上高地などへよく出かけました。もちろん冬でも青空で、当初の目的は達せられました。

 二度目は、その一年後です。教養部のある松本市から、学部のある長野市へと移りました。毎日善光寺参りのできる通学路でした。機械的に計算すると約千回くらいお参りしたことになります。当時四00ccのバイクに乗っていた私は、ときたま飯縄高原へと通じる戸隠バードラインに走りに行きましたが、その道も今は土砂崩れのためなくなってしまいました。三年生の春、指導教官が退官し新しい先生を迎えました。退官される先生の引越しを三週間も毎日のように手伝いましたが、これはカウントには入りません。

 三度目は、新潟県上越市へでした。某大学の大学院を落ち、あわよくばのN県の教員採用試験もダメで、J大大学院へ進んだのです。また、雪国へと逆戻りでした。一年から二年になる際に、寮から追い出されて四度目の引越しをしました。悪いことをしたわけではありません、入寮者の規定がきびしくなったのです。

 五度目は、社会人としての第一歩、N高校の国語の教諭に採用され新潟県新津市へと引越しました。書写書道を専門にする私の授業を聞いた生徒達が、T大やW大に進学する姿を見ながら、勉強は本人次第だ、と思いました。金沢大学のキャンパスで当時担当した生徒、今や大学生たちに出会うと、嬉しいやら恥ずかしいやらです。なんともはや。

 六度目は、国語の教員から書道の教員になるために、長野県の諏訪へ引越しました。また冬の青空を見ることができましたが、冬の朝は氷点下十度を経験することもできました。勤め先は、霧ケ峰高原のちょっと下、標高約九百メートルのところにあるのです。書道担当の教員として、書道部・ボート部(?)の顧問として、毎日の大変な仕事の中に、教員になって良かったと思う瞬間を、幾たびも感じることができました。

 七度目が金沢市三口新町への引越しです。諏訪のK高校書道部の生徒に、諏訪を去ることを告げたのは、諏訪湖の畔でした。夏休みの練習の最終日に湖畔で花火をやった、その時でした。その後、保護者の皆さんも学校まで来て下さいました。一生忘れられないことです。

 引越しの荷物もずいぶんと多くなりました。しばらく引越しはしたくありません。金沢には、腰を落ちつけたいと思っています。ただ、現在住んでいる借家の取り壊しのため、まもなく涌波へと引っ越すことになっています。約十年の間に七回も引越しをした私ですが、ここに住んだのは六ヶ月、もっとも短い記録になりました。七度目の引越しを終えて、次にやることは八度目の引越しです。その次は、角間キャンパスへの移転でしょうか。新しい思い出をつけ加えながら、引越しは続きます。


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