毛筆での「二度書き」について Date: 2023-02-16 (Thu) 
 「毛筆で二度書きしたら叱られた、、なぜいけないのだろう?」というタイトルで、書きたいと思っていて、もう10年以上放置していました。この件について、ご質問いただきました。とりあえず、思うところを書いてみたいと思います。

 ちなみにこれ、硬筆だったらどうでしょうか。硬筆で二度書きしますか? おそらく、硬筆での二度書きも、何となくおかしな行為のような気がしませんか。

 私の考えは、国語科の書写学習の場合は、その目的が文章などを書くための基礎であり、「文字を書く(手書きする)」行為の学習だからだと思います。芸術としての書、書道の場合は、時間性や必然的な身体の動作と関わっていると思います。

 まず書写の学習活動から考えてみます。私たちは何のために書写の学習をするのでしょうか。これは、学習指導要領に示されていますし、同解説や、教員養成のテキスト(『国語科書写の理論と実践』など)にも示されています。読みやすい字を、目的や必要に応じて、適切な速さで書く能力の育成と考えることができます。「書く」能力、もう少し明確な言い方をすれば「手書きする」能力の育成と考えても良いと思います。
 一方、いわゆるレタリングなどの場合、デザインする、字形を作る/創るといったイメージがあるかも知れません。そこには、「書く」と「描く」あるいは「創る」といった差がある可能性があります。
 文字を「書く」ための学習として、学習指導要領の用語を用いれば、横画・縦画など「点画の書き方」を学び、筆順を学びます。そうすると、「点画のつながり」が生じます。「点画のつながり」も学習内容になっています。それが、字形になり、配列・配置になって文書が出来上がっていきます。その質の向上が、書写学習の目的であると考えても良いはずです。速さの要素や、書きやすく書くといった要素もあるでしょう。
 点画を書く動作があり空中での動きがあり、私たちの書く動作は、一連の動きとして成立します。手で「書く」行為は、その動作があることが条件とも言えるように思います。その能力を生かす場面、文章を書く際に(手書きであれば)動作の連続性なしには書くことはできないでしょう。「書く」と「描く」などの差ではないでしょうか。
 その「書く」ことの学習、もう少し限定した表現にすると「手書きする」という行為の学習において、動作を無視した学習をしても、意味がないことは明らかではないでしょうか。いわゆる二度書きは、この書く動作としておかしな行為のように思えます。ただし、何度もスケッチするように字形を構築して、それを手本にして「書いてみる」といった学習活動があるかも知れません。その場合、「何度もスケッチするように」は否定されるものではないはずです。しかし、それは「手書きする」ことの学習の本質ではないでしょう。

 一方、書、書道の場合はどうでしょうか。私は書の研究の専門家ではありませんが、同様に考えることできるのではないかと思います。20世紀に著名な研究者による書の芸術論が書かれていますので、それらを参照していただくべきところではありますが、簡単に考えてみます。
 書は(篆刻・刻字などをいったんおいて置くと)、2次元の壁面芸術としての特徴が強いように思います。その意味では、絵画に近いと思います。しかし、書の作品の場合、書き始めがあって、書き終わりがあります。そして、その過程をたどることができます。その意味では、時間性を有しているという点で、音楽に近い要素もありそうです。詩を線・字形・配列等で表現していくという点では、詩を音声で表現していく歌唱と近い部分もあるかも知れません。この時間性は、身体の動作の表現であるという点でも重要ではないかと考えます。墨の潤渇の変化、ブレスからどこまで歌いきるかといった点も、人間の行為としての表れであり、ボーカロイドとは違います。(あれ、話がそれそうですね。)その意味で、意図せずに戻って修正するといった行為がおかしいことは、当然のことだと思います。多重録音でボーカルを重ねていくということはあるかも知れませんが、独唱すべきところを後で一音だけ置き換えるといったことは、基本的はないということではないでしょうか。ただ、今書いたように、意図してたくさんの線を書き加えて創造するような行為、たとえば墨象のような行為は多分にあり得るだろうと思います。その場合、時間性を保ちうるかどうか。

 私の専門を超えて、いろいろ考えてしましました。このくらいにしておきたいと思います。書写の学習で二度書きがおかしいのは、「書く(手書きする)」行為の学習だからだということですね。

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