文字を書くことの基礎科学は手遅れか? Date: 2004-10-18 (Mon) 
 『書道美術新聞』第809号(2004年10月15日号)の、コラム「風信帖」におおよそ以下のような内容が掲載されている。私の立場からすれば、ありがたいことである。まず、最初の部分を引用する。

    もうちょうっと手遅れなのだろう。「書写」教育の基礎科学、基礎研究の遅れが
    今さらながら惜しまれるのである。

 あとの文章を読めば、この「書写」は「手で文字を書くこと」に置き換えても良いように思われる。掲載紙が『書道美術新聞』であることから「書写」としているが、筆者は、硬筆・毛筆=日常の書字〜書道を問わず「手で字を書くこと」の意義を明確にする必要性を述べているからである。もちろん、広い視野で「手で文字を書くこと」を考えなければ、そのうちの一つである書道についても衰退が予想されるという、同紙であることの意図もあるだろう。
 また「もうちょうっと手遅れなのだろう。」という表現は厳しいが、手遅れかどうかは別としても、状況として厳しいことを正しく認識していると思われる。手遅れであろうとなかろうと、今やらねばならぬことが、後段で記されている。

 「こうした科学的根拠をもたずに「書写」の重要性を訴えても、これからのバトルで勝ち目がないのは火を見るより明らかなのに、」としたうえで、専門家・研究機関への研究委託・研究コンペ・世界規模での先行研究の探査などを提案している。

 確かにこの分野に携わっている者として、細かい目先の課題に追われていて、大きなテーマに向かう余裕がないこと、そして何より人手不足であることから、上記の提案は的を射たものと言えよう。
 ただし、「世界規模での先行研究の探査」はやってみる価値はあるだろうが、少なくともIGSなどから得られる情報からは、これは私たち日本人、そして広く捉えるなら漢字文化圏の人間が意識しておこなわねばならない問題であることに気付かせられる。(少なくとも直接的に考えてくれるのは香港大のKao教授くらいであろう。R.Sassoon女史も興味をもっては下さる。)これだけ複雑で深い文字使用の文化を持っているのは、非漢字文化圏の国々にはないからである。そして、日本の科学研究の構造として、どうしても国際的に話題になっていることが優先され取り上げられる(その方が研究者にとってもやりやすいということもあろう)傾向にあるからである。
 おそらく、日本の独自性としての研究課題とその研究構造(いかに解いていくかの糸口)がわかれば、取り上げてくれる研究者はいるのではないかと推測する。そのためには、私のような立場の者が、その糸口を整理しておく必要があるのだろう。

 さて筆者は、何を求めているのか。「本当に科学的裏付けが欲しいと思う」として、
  「字を書く」ことの
   ・心理面・生理面・精神発達上の効果
   ・他教科への波及効果
   ・毛筆の学習内容を存置させるいことの意義
   ・感性教育との絡み
をあげている。

 これらを私なりに、そして実現可能性も含めて解釈すれば次のようになる。
   ・漢字学習(記憶)における書字動作の効果と必要性
     →運動記憶による漢字(図形)記憶の補助の可能性について、脳の活性箇所
      からの検討からスタート、など
   ・一般の学習活動における書字動作の効果
     →実験群・対照群とで、書字動作とその代替行為とによる学習効果に関する
      心理学的・認知科学的実験
   ・硬筆・毛筆による書字動作が精神状態に与える影響(短期・長期)
     →動作中の前頭野を主として脳の状態に関する基礎研究からスタート
   ・手書き文字によるコミュニケーションにおける非言語要素の明確化
     →コミュニケーション場面を設定し、手書きやフォント等による印象評価や
      感性工学的実験
   ・非言語的要素についての毛筆による増幅効果の明確化
     →異なる書字用具を用いた手書き文書等の印象評価や感性工学的実験
   ・芸術という概念の幅の中に存在する文字を書くことによる行為の明確化
     →たとえば、クラッシック〜ポップス〜カラオケという図式を考えると、
      書壇〜相田みつを〜お習字教室という構造におけるゆがみの問題

 以上、大急ぎで「風信帖」への答えを書いてみた。どうだろう?

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