上手になるということと、良い作品が作れる・創作/創造力が養われると言うことは、必ずしも一致しないかも知れません。まず、字が上手になるということについては、練習すれば上手になると思います。ただただ、やみくもに書けば良いというというわけではないと思いますが。
字を書くという学習においては、視覚的に認識できる部分の学習と運動性の学習とに(一応)分けることができると思いますが、それをある程度バランス良くやることで、どういう字が良いのか、どういう線が良いのかという感覚を養い、技能の向上も図れると思います。師匠の書くところを見て、それをまねることで運動性の学習はでき、上手に書くことはできると思いますが、そのレベルにおいても、善し悪しがわかる必要もあると思います。
次にもう少し高次な、、良い作品ということを考えてみます。字が上手であっても、その人の作品が心を打つとは限りませんよね。さらに、心を打つ作品は、必ずしも高次の精神性の裏付けがあるとは言い切れないかも知れません。苦悩を表現した作品が、人の心を打つことだったあると思うのです。
まず、ある程度良い線を書くには、精神性うんぬんよりも、やはり練習だろうと思います。非常に技術的にすぐれた師匠について、その書きぶりを見て練習することにより、やみくもに何十年も習った人より良い線が引けるかも知れません。その師匠が精神的にもすぐれた人だとしても、その精神性まで学んだと言い切れなくてもです。また、その人が、何十年も習った人より良い線を引けたとしても、作品の良さで何十年も習った人にかなうとは限りません。
次に、すばらしい線で、すばらしい作品を書く書家の中にも、精神的に完成の域にあるとは限らず、その過程を見せている人だっているはずです。さきほどの「苦悩を表現した作品」というのがその例です。ですから、高次の精神性がなければ、作品ができないわけではないと思います。
すばらしい線・すばらしい作品を書くためには練習し、一方センスを磨き、創造性を身につけることが直結しているであろうと思われます。
さらに、最終的な問題として、作品の中に精神性の高さがあらわれるでしょうか? 研究者としての立場からは、こういう考え方が宋の時代あたり(11世紀)から明確になっているということくらいしか言えません。ただし、書を愛好するものとして、きっと作品には精神性があらわれると信じていますし、そうであってほしいと思います。
私ですか、、。 私は、書は一生の仕事だと思っています。そして今現在、私は30才代の一人の若造に過ぎず、決してすぐれた人間だとは思っていません。そして、ただ古典を学び、師匠の言うことに耳を傾け、今書きたいと思うものを書いているだけです。そのうち、良いものが書けるかも知れませんし、一生書けなかいかも知れません。それは、書けなかったとしても、書けなかったということでしかないと思っています。今はこんな感じです。最近は、熱い気持ちだけでは、熱い作品は書けないように感じています。またその気持ちは、この後変わるかも知れません。
最後は、答えにもなっていないかも知れませんが、一人の若造の考えとしてご参照いただければ幸いです。
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