先に押木2・3は、現代日本における手書き文字研究の分野を概観した。さらに、手書き文字研究のための基礎概念について考察し、字形間に生ずる差異に着目した手書き文字研究のモデルを提案した。これらに対する声として、前者については海外における研究状況の把握の必要性が聞かれた。また後者については、差異に着目するだけでは不十分であるという声と、研究のための視点が必要であるという声が聞かれた。当然、手書き文字研究全体を、先に提示したモデルのみでカバーできるわけではない。
本論文では、手書き文字の研究における最も基礎的な視点について整理し、例として「個人の字形形成」と「手書き文字の用途と方向性」を取り上げ、その視点を当てはめてみる。さらに、これまでの研究成果が比較的充実している筆順研究を例として、手書き文字研究の構造試論を提案するものである。
また、筆者が知るだけでも、これまで少なからぬ手書き文字に関する調査研究が行われているが、それらが積み重なって一つの理論となっているとは言いにくい。これまでの調査研究においては、その時の社会的に認められた典型(例:教科書体・「筆順指導の手びき」)と比較して「正誤」という捉え方をしている場合も多い。確かに、誤りやすいものを抽出しそれを指導する、という考え方は有効である。しかし、なぜ誤りやすいのかといった根本的な問題、つまり、なぜ典型以外のスタイルが生ずるのかという視点が少なかったと考える。
本章では、これらの場合に有効と思われる、最も基礎的な視点・概念・要素等を提案したい。
これまでの研究においても、この部分に関する記述がなされている。たとえば、佐藤5は、まる文字と従来のひらがなの比較をおこない、まる文字発生の底流に流れる字形変化の方向性を、第一次変形(書く労力軽減)としての「簡略化・統一化・横書きしやすい字形への変形」、第二次変形としての「装飾化」という観点から考察している。また、小林6・7は、アメリカのHandwritingに関する研究から、教育の目的とタイプライタの問題について紹介している。教育の目的については、「Legibility 読みやすさ」「Speed速さ」「Neatness正整美」の3点にまとめている。また、タイプライタの利点の説明を引いて、「Rapidity速さ」「Ease容易さ」「Economy(時間や用紙などを)節用出来ること」「Convenience便利さ」と訳し紹介している。
これらは、本提案にも非常に参考になるものであるが、意図が異なるため、そのまま適用することはできない。たとえば、佐藤の項目は、現代の手書き文字研究に限定すると非常に有効なものであるが、「簡略化・統一化」と「装飾化」は文字の歴史上常につきまとう問題であるのに対し、「横書きしやすい字形への変形」は近年の問題であり、並列にはしにくい。また、小林の紹介している概念を見ると、LegibilityとSpeed(Rapidity)が並列になっているが、理論的に考えれば、 LegibilityとEase of writingとが並列になり、 Ease of writingの一要素として Speed(Rapidity)をあげるのがレベル的に近いと考えられる。また、非漢字文化圏のものであるため、漢字および仮名の持つ特徴やその他の要素が示されていない。個性・芸術性の問題がそれである。これらを考慮に入れ、表1の要素を提案する。
機能的要素としての、<書きやすさ><読みやすさ><覚えやすさ>については、その捉え方を動的なものと、また静的なものとに分けて表 2のように考えることもできる。たとえば下村8は、筆順について「エネルギー最小化の法則」にしたがうとし、エネルギーを「運筆行程、運筆速度、筆圧などの関数」であるとしている。これを説明すれば、運筆には摩擦が生じるため運筆行程=移動距離(水平移動[点画部・空筆部・前後の文字からの連続])があり、それに上下動と運動方向の変化に伴う加速度が加わる。また「上から下」「左から右」といった運動がしやすいことについては、筆記具の角度上抵抗が低いであろうということとともに、人間の手・腕の構造から来る運動のしやすさも考慮する必要があろう。
さて、これらの要素がバランスを形成することにより、書字行為と手書き文字が成立していると考えられる。たとえば、覚えやすさのために、字形素(運動のパターンの数)を減らすことにより、学習は簡単になるはずである。ところが、それによって似たような形態の字種が多くなると、識別要素が減るという意味で、<読みやすさ>が低下する危険性がある。先の出雲崎4でいえば、「え」と「ん」の例がそれにあたる。また、この関係は、書きやすさにおける運動パターンと、移動距離との間でも生じる。
非機能的部分を含む要素については、多少説明を要するであろう。<個性>は、サインや芸術としての書作品において重視されることを考慮して上げた項目である。次に、芸術としての書作品は、必ずしも美を表現しているとは限らないこと、また人々の意識の中に、<読みやすさ>とは別に「見やすさ」という感覚があることは否定できないことから、<美感>という項目を立てた。さらに、<個性><美感>とは次元が異なるが、<装飾性>という項目を立てた。これについては、前二者において必要となる項目である。
言語を中心に据えた「伝達・記録」と、言語以外のものに関する「表現」とに分けた。またクレジットカードの普及や国際化といった場面において、今後サインの使用が増加するだろうと思われる。この機能として、「認証」をあげた。その場合は、<読みやすさ>より<個性>が優先されることは言うまでもない。さらに、海部9が空書という現象を例に指摘しているように、漢字を書いて覚えるという行為がある。この部分が、「学習」にあたる。
伝達・記録という機能の中でも「A→A」という場合には、「A→B・多数」に比べ<読みやすさ>よりも<書きやすさ>が優先されることが予想される。さらに、<A→B>の場合などの、ABの親疎の問題などもある。先の出雲崎の例では、実験的環境ではあるが、この問題を取り扱っている。同じ「A→B」でも、対友人と対教師・上司では、<個性><美感><装飾性>において差があるものと予想される。
<日常使用の状況>が、人々がおこなっている書字活動における字体・字形・筆順等だとすると、<社会的規制・指針>は「学年別漢字配当表」「常用漢字表」および同「字体についての解説」や「筆順指導の手びき」等ということになる。加えて後者には、その時代の正式書体・使用書体の状況、行書先習・楷書先習といった事柄も含んで考えたい。なお、その中間的存在として、教育及び関係図書が上げられる。これに関しては、前者・後者とぶれがあるであろう。
以上の各項目は、必ずしも現代に限定されたものとは限らない。しかし、その多くは、この100年以内に変化を起こしている内容と言えよう。現代における手書き文字研究の意義の大きさがわかる。
最初の例として、手書き文字の要素<書きやすさ><読みやすさ>などを視点として、手書き漢字字形の多様性を考察した堀ら11の研究をもとに考察を進める。堀らは、手書き漢字字形の多様性を考察する前提として、一般の人々の日常筆記する手書き文字の字形、その個人内の成立過程を図2のように考えている。まず、習得とその後の変形の可能性とが考えられる。
習得方法には、意図的学習と非意図的学習(自然習得)とが考えられる。意図的学習において、特に重要な位置づけとなる小学校段階に限定すれば、字形の標準としていわゆる「教科書体」が用いられていることは周知のことである。前章に示した研究対象としての<社会的規制・指針>がそれにあたる。この教科書体そのものも、<書きやすさ><読みやすさ>においてある程度バランスが取れたものと考えられる。一方の非意図的学習(自然習得)では、教師が黒板に書いた文字の影響や、明朝体等印刷用字形の影響などが考えられる。また新たな字種を学習するといった際、その字形を既習の字形から類推する事もあり得るだろう。ここで、字形素の淘汰の可能性があることから、手書き文字の要素として<覚えやすさ>という視点が必要になる。
次に、当初学習した字形が、日常の書字(読字)活動する間に、何らかの要因から変形することもあり得る。変形の理由として、「目にする字形の影響」「書きやすさ」「形のとりやすさ」「他の字形素との混同」をあげている。同論文ではこれらの視点により、<書きやすさ>として「装飾性」要素の減少・連続による垂直水平運動の減少などを、<覚えやすさ>として他の字種の字形素との混同などをあげている。
詳しくは同論文を参照することにより、先に挙げた要素を視点としていることが理解できるであろう。
最初に手書き文字の各機能等について、現代における現実の使用場面から表 6・表 7のように仮定しておく。まず、表 6について検討する。メモには、いわゆる整斉美がなくとも、速く書くことすなわち書きやすさが優先され、私信にはその人らしさも尊ばれるであろう。書類や出版では読みやすさが優先される。サインと書作品には質は異なるものの個性が必要となる。表 6はあくまで仮定であるが、さほど現実と異なることはないであろう。
次に表 7について、検討を加える。優位性については、一般的に平均して見た場合を想定した。読みやすい手書き文字は、印刷用書体よりも読みやすいことがあり得るだろう。しかし、一般的に手書き文字を平均して考えた場合、印刷用書体の方が読みやすいと考えられるということである。
さて、長くおこなわれてきた「手書き・印刷」という図式は、ワードプロセッサの登場で崩れることになる。現在ワープロ(出力)においては、印刷用書体もしくは手書き風文字が用いられており、手書き文字が用いられていない。当然ワープロの方が、<読みやすさ>と整斉という意味での<美感>において勝ることになる。<書きやすさ>については、ある程度の慣れさえあればワープロの方が速いと言われ、またワープロの場合は10指に負担が分散されるため疲労度が少ないという意見も聞かれる。<簡便さ>については、編集・保存・印刷といった機能からするとワープロが優位である。手書きが優位となるのは、<個性>と<伝統>、そして<表現(言語以外)>と言えよう。ワープロにおいても、文字の変形などが可能であるが、現状ではまだ手書きの方が表現に関する束縛が少ないと言えよう。また<簡便さ>において、現状ではまだ持ち運びなどの点で手書きが有利だと思える。
ワードプロセッサはコンピュータネットワークと結びつくことにより、紙というメディアを媒介せずに、伝達が可能となり、近年のWWWの普及により不特定多数に直接的に伝達する手段を持った。もちろんネットワークでも画像のやりとりは可能であるが、少なくとも現状では、言語の伝達においては手書き文字が用いられている例を筆者は知らない。
ワードプロセッサは印刷用書体を出力するため、読みやすさにおいては印刷に近いが、手続きの簡略さでは個人的な利用が可能であるという点で手書きに近い。時間的には行書以上に速く書く(入出力)ことが可能である。手書きが優位なのは、個性と伝統および持ち運びの容易さくらいとなってしまう。表 6との対照により、個性と伝統および持ち運びの容易さが必要とされる場面は表8のように考えられるであろう。
クレジットカードの普及や国際化によって増加しつつある認証の場面においては、個人名の伝達ではなく個人の識別が必要であり、当然個性が重視される。友人からの年賀状などは手書きのものをもらいたいといった意見や、欧米におけるプライベートレターは手書きするという習慣からも、私的文章は個性が求められる場面といえるだろう。
以上から、ワープロが普及してくるにしたがって、芸術としての書作品をのぞくと、楷書よりも行書の優位性が増してくるという考え方ができる。要するに、運搬の容易さから来る場面としてのメモ・ノートなどの場合における<書きやすさ>や、プライベートレター・サインにおける<個性>といった場面である。
また逆に考えると、書きやすいはずの行書を習得しなければ、速く書かねばならぬ場面においても楷書を用いざるを得ないことになり、楷書の<読みやすさ(Legibility)>を低下させることにもなりかねない点で注意が必要であろう。
なお、「手書き文字の用途・目的と方向性」については、先に押木の別論文で12多少の考察を試みている。ワードプロセッサの普及により<読みやすい>文字を書く必要性が減少したとき、仮に<書きやすさ>の優先する行書の指導が軽視されていたらどうだろうか。自然な成り行きとして、読むための文字として習得した楷書を、各自が速書きする工夫(意識的かどうかに係わらず)を行い、統一性のない字形の増加を招く危険性がある。一方、<表現(言語以外)><個性>という要素の重要性が向上するかも知れない。アメリカにおけるプライベートレターの例に加え、芸術としての書がその目的ということになるだろう。個性を無視しては、その目的性の変化についていけないと言わざるを得ない。さらに書字形式としての横書きの増加の問題、毛筆から硬筆への移行などの問題は大きいであろう。書字用具が変わることで、酒井13の研究成果のように筆記用具の持ち方など他の要素が変化することもあり得る。稿を改めて考察したい内容である。
以上はあくまで仮定の上の試論であるが、前述の概念を使用することによりこのように整理可能である。
まず、筆順についての研究の場合、筆順自体の研究と、その他、たとえば星野15のような筆順に対する意識の研究などがあげられる。前者に限ってみた場合、私たちが研究対象とする筆順は、一体どこに存在するのであろうか。図3を元に考察する。
図中のB、すなわち、現代においては「筆順指導の手びき」(以下、「手びき」と略称)や市販の筆順に関する書籍、歴史的には渡辺16や松本17、安藤18が詳述する筆順書群や『米庵墨談』といった書論の中にも見られる。しかし、これら目に触れるもののみが研究対象である、と言って良いだろうか。筆順は書字行為そのものであるという考え方で、考察してみたい。筆順は、図3のA、すなわち個人の記憶の中に存在し、書字過程において具現されるものと捉えるのである。「筆順指導の手びき」や筆順書群は、筆順の存在形態としては特殊なものであり、通常は筆順の内の一部分しか見えていないという理解である。
5 -1 -2 筆順の取り出し方1―筆順はブラックボックスの中―
ただし、記憶、脳の内部については現在ほとんどブラックボックスと言って良く、そのままでは調査対象とすることができない。最も適切な筆順の調査方法としては、自然筆記する際の書字行為を観察することである。コンピュータとペン入力装置により、そのままデータとして収集する方法もあり、現在比較的容易になりつつある。もちろん、ある個人が常に同じ筆順で書いているとは限らない。筆順の個人内恒常性が96%を示したという調査例31があるとはいえ、ある条件によって変化する場合や、まったくの偶然で変わることもあろう。
5 -1 -3 筆順の取り出し方2―テスト形式―
次に、記憶からテスト形式で筆順を取り出すという方法が従来から用いられている。たとえば、久米19は累加式や分解式といった例をあげている。また、吉田20や小塚21が用いている全数記入式と特定の点画の筆順を答える方法などがある。この場合、被験者が普段書いている筆順を再現できているかどうか、ふだん使わないがこれを正しいと信じている筆順が表出されてしまうのではないかという問題もある。
5 -1 -4 筆順の取り出し方3―過去の筆順―
すべての被験者の筆順を観察するということは、時間を要する。また、テスト形式では、その被験者本来の筆順を答えてくれない危険性もある。このように、個人個人の筆順を捉えることは難しいわけであるが、問題は、過去にさかのぼって個人の筆順を調査することが出来ないということである。この場合、すでに書かれた文字の字形から筆順を推測することになる。歴史研究においてはBの部分を用いるか、もしくは佐藤22・森山23や江守24のように書かれている字形からAを推測する方法をとらざるを得ない。なお、これらの調査によった<日常使用の状況>については、個人間(個人内)差異と共通部分との整理が必要となる。
5 -1 -5 社会的規範としての「筆順指導の手びき」「筆順書」等
先に研究対象として提示した概念から、前項までに述べた個人の筆順の集合体が<日常使用の状況>であるとすると、「筆順指導の手びき」は<社会的規制・指針>であり、その他の出版物などは<教育および関係図書>と位置づけられる。
<社会的規制・指針><教育および関係図書>は複数の意味で重要な意味を持つ。ひとつは前項で述べたように、過去の筆順を知るための手段としてである。またその時代の筆順について調査する際の基準として利用することもあるだろう。そして、それ自体がどのような筆順を提示しているか、どのような理由からその筆順を選んだのかという研究対象として、極めて大きい意味を持つことはいうまでもない。
複数のものを比較するという方法が多く用いられるのはどの分野も同じであろう。複数の個人の筆順から、その差異や共通点を抜き出すというのもそれにあたる。差異を比較する研究と、時間的変化を扱う研究について、図3に示しておいた。この構造によって、国や文化の違いを比較研究という形で取り扱うことができる。その際、久米25・周26や鈴木27のように多くはBについて比較することになるだろうが、その対象がAという場合もあり得るだろう。
5 -2 -2 時間について
個人の学習・発達・成長に伴う筆順の変化を縦断的に調査するといった場合の個人内差異も、時間の推移から変化を見ているわけである。巨視的に捉えた場合、歴史研究になる。Bの部分はいうまでもなく、Aであっても江守24が扱っている王羲之らの字形の場合は、多くの人々に影響を与えるという点において重要な意味を持つ。
先に提示した視点を用いて、筆順自体について考察を進める。筆順は、いちストロークが同一方向にのみ運筆されるとした場合、画数n画の文字にはnの階乗(n!)通りの筆順が存在すると考えられる。しかし、前述の吉田ら20を参照するまでもなく、現実にはそれよりも遥かに少ない筆順しか見ることができない。このことは、「筆順指導の手びき」等の指針や教育によるものとだけ言ってよいだろうか。この問いは、「筆順の原則はなぜ難しいのか?」「筆順は一つでなくてはならないのか?」「筆順はどうあるべきか?」といった問いへの解答にもつながっているように思われる。
書体・字体・字形の変化の過程において、多数の筆順があらわれそして淘汰され変化しててきたと見るのが、自然であろう。このことは、多くの筆順に関する論文・書籍に書かれている。たとえば、前述の松本17は、明治期の筆順が、字源・行草体・結構法によっていることを明らかにしている。これは先に提示した観点の<伝統><書きやすさ><美感(整えやすさ)>に該当する。また久米19は、「最も書きやすく、速く、むだなく、形が楽に整えられて、したがって、その字を覚えやすい」という概念を提示している。これらをもとに、先に提示した要素を筆順に当てはめたのが、図4である。各要素について簡単に考察しておく。
5 -3 -2 覚えやすさについて
筆順の要素として<覚えやすさ>があげられることは、「筆順指導の手びき」においてその筆順を選んだ「原則」というものを示し得たことからも納得できよう。ただし、原則というものは、例外があっても矛盾しないはずである。この場合の「原則」は、あくまでも複数の筆順から一つを選んだ理由を整理したものというべきなのであろう。これについて、笠28のように「例外の多いこの原則というのが筆順指導の障害をなしていることを考えねばならない」と単に批判しているものや、前述の久米14のように試案を提示している場合もある。筆順をいくつかのパターンにわける作業は、覚えやすさや指導の容易さにも重要なことである。しかし、覚えやすさだけを優先させれば、書きやすさ等において、不適切なものとなるだろう。
5 -3 -3 書きやすさについて
<書きやすさ>については、長い年月に渡る多数の人々による経験則からなっていると考えられる。この点を、立証しようとする研究も行われている。まず下村29は、「筆順指導の手びき」の筆順について「運筆行程」を測定し、「人間の環境適応性の一つ」としながらも、「上」については「手びき」以外の筆順に最短距離が有ることを示している。川浦30・倉内31も運筆行程、距離に限定して、複数の筆順について比較する実験をおこなっている。たとえば、倉内は、「右・布・角・上・店・可・長・登・必」について、その親筆順(ある文字の中で、高い出現率を示す筆順が、その他の各筆順の出現率の倍以上を示すもの)の方が、「手びき」の筆順よりも運筆行程(本稿で言う水平方向の距離)において、短いという結果をあげている。特に、「可」の運筆行程において、親筆順は「手びき」の筆順の7割弱の距離となる。この「可」の結果は、一字の内部での移動距離と、次字への連続のための距離との間でバランスが発生しているためと推測できる。なお、これらの実験は、水平移動距離のみであったり、実験に用いる字形が印刷用書体であったりする部分が、今後の課題と言えよう。 一方書きやすさの中でも、運動については、古く本間32が述べている程度でまだまだ研究成果が多いとはいえない。筆者の推測を例とすると、「手びき」における「上」の筆順は、距離よりも「Z」型の運動が優先されている結果ではないかと考えることができる。同じ方向の画を連続させて書くこと、特に漢字に横画が多いことから生じる「Z」型運動の問題は重視すべきであろう。「田」「王」の筆順の問題などは、この「Z」型運動を用いるか否か、どこで用いるか、という視点で考察することもできる。この問題は、距離の問題同様、書字方向とも関連するであろう。
5 -3 -4 読みやすさについて
<読みやすさ>は、認識する際の速さや誤読率の問題と言える。前述の松本17は、正しい字体認識についてふれ、『小学必携習字問答』の「干」の筆順による「子」との混同の可能性の例をあげている。また、先の「左」「右」は、伝統(次項参照)で説明できるであろうが、この横画とはらいとの関係が、字種の識別要素として強く働いているとすると、読みやすさに関係するかも知れない。
5 -3 -5 機能におけるマイナス要因としての伝統
述べてきたような機能的要素に対し、阻害する要素がある。書体・字体など字形が機能的に変化するのに対し、筆順の変化が追いついていない場合がそれにあたる。最もわかりやすい例としてあげられるのは、「左」「右」であり、篆書の時代からの要素を引きずっている。この二者の筆順の違いは、覚えやすさの点でマイナス要素となる。ただし、この筆順の違いは、前述のように<読みやすさ>の点で機能しているという見方もできる。また字体のレベルで、久米14は旧字体における筆順の残存として「専」などの例をあげている。さらに、<社会的規制・指針>における字源主義も、「機能におけるマイナス要因としての伝統」の中に分類できるだろう。
5 -3 -6 各要素のバランス
筆順は自然に淘汰され変化して、以上の各要素が適度にバランスを保ったところで存在すると考えられる。字種によって、<書きやすさ><覚えやすさ>等のバランスは異なる。このように考えれば、「手びき」の「原則」に矛盾が起こり、わかりにくいのは当然と言えよう。さらに、このバランスは時代によりまた各個人によって当然ゆれが生じる。<読みやすさ><整えやすさ>を気にせず、<書きやすさ>を優先させる人がいたり、また<覚えやすさ>を優先させる人がいても当然である。このことが筆順が一つとはならない理由となる。
「筆順指導の手びき」について考察すると、「手びき」以外の筆順が親筆順となっている場合は、「手びき」の筆順において各要素がバランスを崩していると考えられる。また「手びき」の原則の表現方法について、パターン化の方法を工夫することは、<覚えやすさ>を向上させる可能性を持っている。
このように考えてくると、筆順研究と言っても、対象が「筆順指導の手びき」などのような「社会的に存在するもの」なのか、それぞれ差をもっている「個々の記憶(書字行為)」なのか、また視点としてどの部分に重点を置いているのかを、ある程度意識しないといけないことがわかってくる。たとえば、比較研究として、それぞれの社会的に存在する規範を比較するとしても、鈴木27のように(外国人に対する)日本語教育のための研究であるという目的からの限定も必要である。同じく、書きやすさに視点を当てた比較研究というのもあろう。周33の研究は、「社会的に規範とされるものを対象」とし、「距離による書きやすさを視点」とした「比較研究」というように整理ができる。周は、「筆順指導の手びき」よりも「国民小学国語」(台湾)の筆順の方が、距離において有効な場合が多いことを示している。周と同様の対象を<書きやすさ>の距離以外の要素や、<書きやすさ>以外の要素で比較した場合はどうなるであろうか。これら以外にも、各国における「個々の実態」と「社会的に存在する規範」との差を比較するといったことなど、さまざまな比較が考えられる。
5 -4 -2 研究の総合化
これらの組み合わせが、研究の総合化につながるであろう。
まず、筆順研究の総合化について取り上げる。青山34は小学校1−6年生の筆順調査結果を分析する中で、高学年において「手びき」以外の筆順の出現率が増すことについて、字形の複雑性・筆順指導にかける時間・意識の問題から推測している。一方小塚ら21は、「字体の字画数と筆順数の増加は必ずしも一致しないが、字画数の多い字体では筆順数が多くなる傾向」があることを述べている。青山の結果と小塚の結果とを比較すると、どのような結果となるだろうか。
次に、筆順研究と縦書き・横書きの問題を取り上げる。先に紹介した倉内31の「可」の移動距離の例について、次の文字への縦方向への連続性が重視された結果ではないかと推測した。この問題は、縦書きと横書きの関係に発展していく研究課題である。筆順と縦書き横書きの問題は、別の視点から語られることが多い。しかし、この問題のように、「筆順についてどういう視点から扱うのか」「縦書き横書きについて、何を対象に研究するのか」ということの明確化とその結果の総合が、今後の課題となっていこう。
手書き文字研究における部分形の問題についてはどうだろうか。指導・研究の単位として、部分形をどのように考えたらよいかということは、問題になることである。筆順の面からこれを見た場合、倉内は、個人内恒常性が認められる場合として「王・現・宝・程」の「王」などをあげ、逆の場合として「右・布・希・有」の例をあげている。後者については、青山34の報告と一致している。部分形に関する研究も、このように筆順から捉えることができる。
さらに、字形と筆順の関係について倉内31は、運筆行程測定において対象とする字形を(許容形に)変えると、20%程度変化することが述べている。本来、移動距離に関する調査は、調査対象者の字形によってなすべきであり、またそれによって、筆順と字形の関係も明らかになるものと思われる。 このように、研究の細分化と研究の総合化という点においても、手書き文字の研究はこれからといったところではないだろうか。