手書き文字研究の基礎に関する諸考察

金沢大学教育学部 押木 秀樹

HIDEKI OSHIKI

Faculty of Education, Kanazawa University

 


 この論文は、1992年課題研究としておこなった論考です。webに掲載する時点において見直したとき、他分野の先行研究を十分に踏まえたとは言えず、非常に未熟な部分があって、気になります。いずれ書きなおしたいと考えています。しかし、多少なりとも役立つであろう部分もあり掲載することとしました。その点をご了承いただきたくお願いいたします。(1999.02)
 本稿は、千葉大学久米 公・二松学舎大学浦野俊則・静岡大学平形精一・山梨大学宮沢正明の諸先生をはじめとする仮称書字学研究会のメンバーとの討議の過程において、筆者が述べさせていただいた意見を中心として作成したものです。また、数年前から現在にいたるまでの過程で、ご指導をいただいた情報処理等の諸分野の先生方のご助言がなければ、本稿はできなかったであろうと思われます。諸先生に感謝すると共に、その旨をおことわりいたします。ただし、本稿が極めて未熟なまま世に問われることの責任はすべて押木にあります。

1.はじめに

 手書き文字の運用に関わる事象の内、中国・日本の伝統に支えられた漢字学・字書研究や近代の言語学的な文字論など、いわゆる字体をめぐる諸問題については、研究成果を多く見ることができる。それに対し、たとえば「読みやすい字」「書きやすい字」「好ましく思える字」といった点に関しては、書法・書道として多くの蓄積があるとは言うものの、科学的な意味での研究成果が多いとは言えない。たとえば、書写の教科書には上記に該当するであろう手書き文字、長い歴史の中で形作られたものであろう文字が掲載されている。また、経験にもとづく筆跡鑑定はかなりの精度を持つといわれている。ただ、それらはいずれも経験律であり、少なくともそのままのかたちで科学的な研究へと発展させることはできそうにない。

 手書き文字それ自身を対象とした研究を他の研究領域と同じような「〜学」とすることを阻む要因は、いくつか考えられる。まず、手書き文字は書く人・書かれる時々によって必ず異なる形態となってあらわれるものであり、文字言語の運用から考えると極めてランダムな変化をする部分である。その意味から、一般化・理論化が適さない部分を対象としていることが要因の一つである。これについては、「一見ランダムに見える書字行為とそれによって生じる文字について、ある要因によって生じる差異を一般化・理論化できるのではないか。」という前提をたてる。この前提による研究のモデルを第5章において提案する。又これらを考察するための概念について、文字に生じる差異という観点から、第2章において簡単な考察を行う。

 本稿は、以上の二点に加え、研究の目的と領域について第3章に、なぜ研究課題とすべきなのかその根拠に関する説明を第4章に、また研究テーマの例を第6章に付し、手書き文字研究を科学的なものとしていくための基礎に関する一提案を行うものである。なお本稿は、手書き文字研究の目的を書写書道教育学に限定する意図のないことをお断りしておく。目的の限定は、視点までも限定してしまう危険があるからである。また、現状に合わせるのでなく、少なくとも筆者の知り得る範囲内において、今後の可能性を優先させた。

 

2.手書き文字研究のための諸概念

 これまで手書き文字の研究においては、漢字学・文字論・書法などの分野で用いられてきた概念・用語〜一例を上げるなら林*1の定義など〜を用いてきた。それらの概念・用語はそれらの分野で優れたものであっても、本稿で意図する手書き文字研究にもっとも適したものであるかは疑問である。ここではそれらを踏まえつつ、以下の章の説明のために、手書き文字研究のための概念・用語について考察する。この案は手書き文字とその運用を必ずしも明確に説明できるものではなく、もちろん実際の研究成果をふまえたものではない。あくまで案であり、研究成果から訂正がなされ、また更に優れた考え方が提案されることを祈りたい。

 

2−1 研究対象としての手書き文字−書字・認識過程と実現形・記憶形

 手書き文字研究においては、現実に書かれた文字ばかりを研究対象とするのではなく、書字・認識の過程を研究対象とすべきであると考える。手書き文字の運用においては、過程(時間的ながれ)と何らかの形態(面上に表現される部分)とが不可分の関係であるためである。

 まず、手書き文字の運用過程を図1のようなものと仮定する。この図では手書き文字を、<書字→認識>の伝達という機能として、過程の中で捉えたいと考えた。また、そこには伝達機能の習得・学習という場合も含めたい。その過程は特殊な場合を除き、空間的・時間的に間接的であり、また書字者から特定・不特定の他者もしくは書字者自身へと行われる、と考えられる。

 図1の意味は、次のように表現できる。文・語として表現できるような何らかの概念を手書き文字として表現する場合、その概念は文字の意味や音から、もしくはある段階をスキップして、何らかの記憶と結びつき、脳・手・視覚とそれらを結ぶ神経系のサーキットと、ほとんどの場合筆記具との関係で、文字を生み出す。この時の記憶を書字用記憶形とし、生み出された文字を実現形としておく。実現形を読もうとすると、視覚情報と何らかの記憶とでパターンマッチングが行われ、それが文字の音・意味から、もしくはある段階をスキップして概念を理解する。この時の記憶を認識用記憶形としておく。

 この書字・認識の過程から実現形と記憶形を取り出し、研究対象として考察を加える。

 実際に筆記されてそこに存在する(場合によっては存在した)文字を、実現形とした。理論的に、二度と同じものがあらわれることのない形態と言えよう。

 次に、書字・認識行為の内部については、認知科学や生理学、さらには手書き文字研究の中で正しい姿を明らかにしてほしいわけだが、人間の認知行動が〔知覚〕〔判断〕〔記憶〕そして〔学習〕から成り立つとする考えを示すまでもなく、人間が文字のパターン・フォームを何らかの形で〔記憶〕していることは確かだろう。書字する際に用いられる記憶は、二次元の文字パターンというより、運動系・視覚系とのサーキットの動きとして、また文字を分割した部分形として、記憶されているのかもしれない。また認識する際に用いる記憶も、純粋な文字パターンというより音・意味との関わりもしくは語として、また一方分割されたパターンとして記憶されているという考え方もできる。いずれにしても、書字・認識するための文字パターン・フォームを記憶していることは確かである。それが先に「書字用記憶形」「認識用記憶形」としたものである。「〜形」としておくが、それが二次元的にイメージされる形態であるとする意図はない。また書字用記憶形と認識用記憶形については、ある部分共用されているという考え方もできそうだが、ここでは分離させておいた。これらの記憶形が、二次元のパターンのような形で記憶されているというよりも、書字・読字行為それぞれと結びつく形で記憶されているのではないかと想像するためである。なお本稿においては、区別が難しい場合には単に記憶形としておく。研究成果による解決を待ちたい部分である。

 手書き文字研究で扱う文字は、手書き文字をベクトル化して保存したものなども実現形と考えれば、実現形・記憶形のいずれかの形で存在するものであるといえよう。これらに加え、書字・認識の主体と過程とが研究対象として考えられるものである。

 


2−2 複数の文字間の差異の分類1−字体レベルと字形レベル

 文字研究の概念として、国語学などでは、字形・字体といった用語が見られる。最も一般的な定義を『国語学大辞典』に求めるなら山田*2は、「具体的に筆記具を用いて物の面に書いたり彫ったりした痕跡を字形として区別するならば、音韻と音声との区別における音韻に擬せられるのが字体である。すなわち、字形が現実的・個別的な、その都度多少の差の生ずる現象であるのに対して、字体は、抽象的普遍的で社会的に一定している観念…」としている。これまでの手書き文字研究での理解も、おおよそ山田と同様であろう。国語学などの文字論においては、観念である字体が研究対象となるだろう。しかし、本稿で意図する手書き文字研究において、文字は実現形・記憶形のいずれかの形で存在するものとして研究対象となるが、「社会的観念」である「字体」は現実に存在しないため研究対象にできない。だからといって「字体」という観念が不要と言うことにはならない。

 図2の各文字には、それぞれのフォームの間に差異が存在する。これらの差異を、文字の機能という観点から分類するとどのように考えられるだろうか。基本的な考え方は野村*3に従いたい。正確な定義とその説明は野村の文献によるとして、野村は文字の構成要素を、字体素・音素・意義素としている。

 (a)と(c)の差、差異Aは、音素・意義素・字体素ともに異なる、文字、正確には文字素の違いによって生じる差異である。(a)と(d)の差、差異Bは、音素・意義素は同じであり、字体素の違いによって生じる差異である。(a)と(b)とでは、明らかに差があるにも関わらず、<学>と認識する。その差異は、先の山田の定義からすれば字形の差異ということになる。(d)と(e)の違い、差異Eは、一般的に書体の違いとして捉えられている。この違いは、ある慣習上生じるもので、字形の差異と区別することは難しい。文字素の違い、字体素の違いとは、一線を画すであろう。

 以上をもとに、機能上から主に差異が生じる要因は次のように考えられる。


 さて、これらの用語の通用上のことを考えたい。たとえば、二つの実現形の間で文字素が異なれば字体素も異なっているはずである。また字体素・書体が異なっていれば、字形が異なっていて当然である。したがって、あくまで通用上、差異の分類に際して、

と呼んではどうかというを提案しておきたい。もちろん、厳密な論述の場合は別としての提案である。本稿においては、以下特にことわりのない限り、これによる。

 さてこのように、「字形」「字体素」の違いを、差異の分類手段としてみると、字形の持つある特徴を捨象したものが字体素であるという考え方でなく、実現形・記憶形には字形レベルの特徴と、それを捨象して得られる字体素レベルの特徴とが見られるという考え方ができる。これらをまとめると次のようになる。

・実現形

・記憶形

←→

・字形レベルの−  特徴  示差的特徴  差異

・字体素レベルの− 特徴  示差的特徴  差異

 

2−3 複数の文字間の差異の分類2−連続的差異と非連続的差異

 文字素の違い・字体素の違い・書体の違い・字形の違いについて、伝達という機能上、より重要な情報を持つ「違い」と情報が少ない(もしくはまったくない)「違い」という観点で並べると、どのようになるであろうか。おそらく、

    文字素の違い > 字体素の違い > (書体の違い>=) 字形の差異

となるであろう。機能面から考えると、「より多くの情報を持つ違いの方が、パターンの差異も大きい」方が、自然に思われる。たとえば、「字」と「学」の誤認識と、「學」と「学」の誤認識をくらべた場合、後者の誤認識の方が一般には被害が少ないであろう。この機能上の差異の順序に対し、パターンとしてみると、「字」と「学」の差より、「學」と「学」の差の方が大きいという現実がある。さらに、図3のAの「土」と「士」は、「字」と「学」よりも誤認識を生みそうに感じられる。

 手書き文字研究においては、伝達という機能上の差異の分類のみでなく、文字を一つのパターンとしてみた際の分類の必要があるだろう。ここで、連続的差異と非連続的差異という分類を提案しておく。たとえば、図3の差異Cは字形レベルの特徴に過ぎないが、差異Aは字体素の示差的特徴であり、ともに長さという連続する特徴である。次に差異Dのような、「口」における右上部の転折(カーブ・角)に着目したい。転折は、いわゆる角である場合と曲線である場合があり、直線と直線が接している場合はその角度、カーブであればその度合いは、連続的に変化する。そのほか、方向も連続的に変化する差異である。

 それに対して、差異@は誤認識しやすいかもしれないが、点の有無という非連続性の差異といえよう。差異Bは、交わっている、と接しているの違いで、これも非連続性の差異といえよう。ただし、文字は線分でできているように思われがちであるが、特に実現形についていえば、一般にいわれる線は厳密には面であり、厳密には交わっていると接しているの違いは連続性とも考えられる。また、差異Eは、接しているか離れているかの差異であり、非連続性である。この例は、情報処理における文字認識の難しさを語る際に取り上げられる例であるが、ループの有無、閉じているか開いているかと言いかえることもできる。おそらく差異Eよりも差異Dの方が、差異が大きいと感じる人が多いのではないかと思われるが、ある見方からすれば逆の場合も有り得ることも考慮すべきであろう。

 以上をまとめると、

    連続性の差異  : 長さ 位置 角度 方向 曲線情報 
    非連続性の差異 : 有無(数) 交 接 ループの数  

などのように、分類できる。


2−4 文字列並び、文字列、文字、構成要素について

 これまでの諸説明に、文字という言葉を用いてきた。実現形が面状に表現されているとき、単独の

    ・文字

としてばかりでなく、複数の文字による、

    ・文字列 ・文字列の並んだもの(文字列並び)

として存在することが多い。これまでの説明の中にも、文字と表現した箇所を文字列・文字列並びと置き換えても良い部分がある。また、一つの文字を、

    ・構成部分    ・線(実現形では多くの場合面であるが)

に分割することもできる。これも、これまでの説明の中に、文字と表現した箇所を構成部分・線と置き換えても良い部分がある。

 手書き文字研究の際には、これらの単位での研究が必要である。本節の説明の中では、これらのことについて触れなかったのは、便宜上のことと理解してほしい。

 

2−5 記憶形の広がりに関する考察

 字体素レベルの差異と字形レベルの差異のことに戻り、記憶形との関連で考察を進めたい。

 同じ字体素の文字、たとえば「学」という字を想定するとして、Aさんの書いた〔学〕とBさんの書いた〔学〕という字では、字形の差異を有する。にもかかわらず、我々は同じ文字「学」であると認識できる。この点から、記憶形は、字体素を識別する記憶であるといえる。また、我々は「学」などの文字を思い浮かべることができる。おそらく、記憶形を、頭の中で明確なものへと再構築しているのであろう。どのような形で記憶されているにしても、字体素を認識し、他の字体素と区別し、また書字するための記憶形が用意されていると言える。

 次に、Aさんの書いた〔学〕とBさんの書いた〔学〕という字について、同じ字体素「学」であるとするだけでなく、時としてこれはAさんの書いた字だBさんの字だ、と思うことがある。また、我々はメモをする際と、公的機関への届出書類を書く際とで、意図的に実現形に差をつけることができる。このことから、記憶形は字体素のみでなく、それ以外の字形の差異を認識できる記憶でもあるとし、さらには字形レベルの特徴を持った記憶形の存在を一応肯定しておきたい。

 手書き文字研究においては、複数の実現形の間に字形レベルの差異・字体素レベルの差異・書体レベルの差異が存在するのと同様に、記憶形にも字形・字体素・書体の各レベルの特徴・差異と言えるもの、もしくはそれらを識別できる情報が存在するという考え方を提案する。

 さて、これらをどのように考えたら良いであろうか。認識の場合を考えてみる。一つの考え方として、我々は字体素レベルの示差的特徴を識別できるだけの認識用記憶形を持っていて、視覚情報としてのフォームから、その字形レベルの特徴を切り落とす処理をほどこした後、パターンマッチングを行っているのではないかという想像ができる。別の考え方として、ある程度の切り落とし処理を行っているものの、記憶形はある程度の幅・広がり(もしくは曖昧さ)があり、その広がりの中で認識しているのではないかと考えることもできる。いずれが現実の人間の行動に近いかについては、認知科学や今後の手書き文字研究の成果を待ちたい。過程における処理の問題でもあろうが、とりあえず後者の考え方、広がり(曖昧さ)というイメージを用いておく。

 記憶形が字形レベルの特徴を持つもしくは識別できるということを、記憶形の広がりというイメージで考えてみたい。図4におけるABCそれぞれの文字列は、ある連続的に捉えることのできる字形的特徴の一点を、実現形として表現したものと仮定したい。それを、ア・イの二名が認識する場合を考えてみる。仮にアを20才の女性とし、イを50才の男性としたとき、アはBからAよりで最も読みやすいと感じ、イはBからCよりで最も読みやすいと感じることは、現実にありそうである。アの持つ記憶形で認識しやすい実現形と、イの持つ記憶形で認識しやすい実現形とは、必ずしも一致しない、というモデルを提示しておく。もちろん、ア・イともにこの字形的特徴の1点のみしか認識できないわけでなく、認識範囲に幅を持つ。認識用の記憶形には、幅もしくは広がりがあるということが、概念的には理解できるであろう。


 図5では「書」「字」という2つの字体素をならべた文字列の実現形を5つ並べ、さらにそれらをグループ化してみた。一種の字形的特徴の差による「書風」とも呼べるものによるグループである。これを見たときに、納得する人と、まったくグループ化の意図のわからない人、部分的に同意する人とがいるであろう。記憶形の広がりは、認識という軸の他に、美しい美しくないなどの認識と関係しない軸を持ち、この広がりのなかで、認識できるというだけでなく、区別する能力があるというイメージを提案する。

 また詳述は避けるが、書字する際もその用途により、字形レベルの特徴の変化を意識的に付けることが可能であり、以上述べてきたことは認識ばかりではなく、書字にも同様に想定したい。


2−6 伝達と芸術的価値に関する考察

 さて、漢字文化圏における手書き文字の機能として、伝達の他に芸術的な機能が考えられる。芸術的な機能の場合、一般に表現→鑑賞という過程として考えられ、言語的な概念すなわち意義素・音素などではなく、「感興」などと言われる心理的作用が働くなどと説明されることが多い。ここで、前述の記憶形の広がりという考え方からこの点について考察したい。

 この過程は、伝達機能がそこに存在してもしなくてもよく、書字過程はともかく、認識過程に関しては前節で述べた「認識と関係しない軸」の方に重点が置かれた行為といえよう。たとえば現在、手書き文字の学習として、小中学校では国語科書写として、正しく整った文字を(速く)書けることを目的とした学習が、高等学校では芸術として芸術科「書道」の学習が行われている。前者は基本的に字体素レベルの示差的特徴をより明確にすること、認識しやすい・読みやすい実現形の生成を目的とし、後者は認識と必ずしも関係しない字形レベルの特徴に関する学習が目的といえよう。にもかかわらず、平成元年度版高等学校学習指導要領芸術科書道では「書写能力を高め…」という違う次元の内容が含まれている。これはどのように説明できるだろうか。

 この二者の目的を仮に、「読みやすい文字の生成」「美しい文字の生成」と置き換えよう。私たちの認識用記憶形の広がりの中で、「読みやすさを感じる軸」と「美しさを感じる軸」があるとする。図6の(A)(B)の交わり方は、相関を示していると考えてほしい。私たちの意識の中で、読みやすさと美しさは無関係であろうか。(A)は無関係を意味する。しかし、私たちの意識としては、(B)のように美しい文字と読みやすい文字との間に、ある程度の相関があるのではないかという考え方ができる。記憶形の広がりの中の軸がこのように構成されており、さらにいわゆる「感興」を引き起こす「鑑賞に値する文字」は「美しい文字」であるという(誤?)認識から、書道・書写の混同が生じているのではないだろうか。以上はあくまで仮説であるが、このような二軸の関連を実証することができれば、小中学校の書写と高校もしくは一般の書道が連続し得ると説明できそうである。

 以上、記憶形の広がりの中での軸を想定して論を進めたが、現実には複雑な要素が絡み合っているであろうし、もちろん書字認識過程においてそれらの軸が一つの文字パターンごとに存在するとは考えにくい。曖昧な仮説であるが、本稿は現実の研究成果を踏まえたものではないので、それ以上の考察は控えたい。ただ、記憶形にも字体素レベルのパターンのみでなく、字形レベルの特徴に関する部分が存在する、という考え方が手書き文字研究に必要であると考える。


3.定義と領域

 これまで、手書き文字研究という言葉を使ってきたが、本稿で意図する手書き文字研究の概念を説明していない。意図するところとして、手書き文字研究の定義と領域を次のように想定する。なお、先に述べた前提により、研究内容の制限を少なくすることを意識して定義を行い、無意味に領域を広げることを避けるため領域の限定を行う。

 

3−1 定義

 本稿で言う「手書き文字研究」、ひいては「手書き文字論」を次のように定義しておく。可能性の広がりを重視し、研究内容の制限を少なくしたいという意図による。

 手書き文字の運用に関して、

  ・書字する主体および

  ・書字過程(書字運動・用具を含む)と

  ・それによって生ずる字形等(配列・様式を含む)に関連する現象

  ・並びに文字を認識する活動

              を対象とする科学

3−2 領域

 現実の運用上無意味に領域を広げることを避けるため、ある程度現状に合わせるかたちで領域の限定を行う。

 以上の領域の限定が意図するものを具体的に述べると次のようになる。字体素の問題として字形レベルの特徴を捨象して考え得る、字源・字義・音韻との関連・字書研究・異体字などの国語学・漢学系の文字学文字論、同様に言語学中の文字論は、すでに方法論と成果を持っており、本稿で言う手書き文字研究には含めない。また活字などの問題については、比較対象として取り扱うことは十分にあり得るが、言語学の文字論・印写工学・活字設計理論などに成果があり、中心課題とする必要はないと考える。文字に関する芸術的研究は、書学・書道学として行われている部分やその研究手法で対応可能な部分については、手書き文字研究で扱う必要はないと考えた。

 歴史研究についてであるが、手書き文字に関わるものとして、これまでに文字史と書道史という研究がある。筆者の理解によれば、文字史は、字源・字義・字書・異体正体・漢字とかななど字形レベルの特徴を捨象しても考え得る部分を通史的(通時的)に研究したものであり、書道史は字形レベルも含んだ、特に芸術性をも対象とした通史的(通時的)研究である。本稿で意図する手書き文字研究では、先に除外した分野を除き、通時的な差異を検討することも、大きなテーマとなろう。歴史研究という把握の仕方と、通時的な差異を検討するという意識の違いがあろうとも、歴史研究を排除する意図はない。

 研究分野から言えば、手書き文字を研究している分野として上記の他に、情報処理文字認識・筆跡鑑定・筆跡心理学などがあげられる。これらの分野は直接的な目的は異なるものの、扱う対象やそのレベルが本稿における手書き文字研究と区別できない。したがって、これらの分野において研究が進められており、その成果があっても、上記の条件に当てはまる限り本稿で言う手書き文字研究の領域としたい。

 以下の考察は、この領域に従って進める。

 

4.根拠について

 研究は、現実に役だたせることばかりを意識するのではなく、単純な疑問を明らかにすることも重視すべきであろう。その成果が自然、応用されることもある。その意味からすると、ここで手書き文字研究を行う必要性を説く必要はないのかも知れない。しかしあえて、現実的な必要性から、手書き文字研究の根拠について、ここで述べておく。

 

4−1 書写書道教育より

 学校教育においては、各教科で内容学を持つ。算数←数学、国語←文学・国語学・言語学・漢文学などがそれの例である。しかし、国語科書写における内容学となると、それが非常に曖昧である。教育系大学における教育においても、書写教育の内容は学というより経験的なものが多いと考えられる。

 書写教育の内容を、平成元年度版学習指導要領の表現を参考にし、整理すると次のようになる。

   文字を @正しく A整えて B調和よく C読みやすく D速く  書く能力を育てる。

 このうち、「@正しく」は、前述のモデルの字体素のレベルであるが、A以降は字形レベルである。したがって、字形的特徴を捨象した研究、すなわち言語学の文字論・文字学ではカバーされない。また「@正しく」は、字体素のレベルの問題であっても、先に述べた理由から、現実の運用においては字形レベルの問題と切り離すことができない部分をもつ。

 以上から考えるに、書写教育の内容学としては、正しく、整っていて、調和よく、読みやすい文字・文字列もしくは文字列配置はいかなるものかといった論と、そういった文字でありしかも速く書くための方法に関する論が必要であることになろう。ここでの「正しい」「整っている」「調和がよい」「読みやすい」といった用語が、具体的に何をさすのかを明確にすることも、内容学として成立させるためには必要であろう。たとえば、「正しく」は誤認識率が低いことと、「読みやすい」を認識速度と疲労度とに捉え直すことができる。また、問いの形で表現するならば、「整っている」と感じられる文字と「整っていない」と感じられる文字における差異は、どのように存在するかということになる。

 以上より、書写教育の内容学として手書き文字の理論が必要であると考える。

 

4−2 情報処理より

 文字認識の研究者である森*4の文章を紹介する。

 文字認識は、音声学といった後ろ楯をもち、その知識を十分活用している音声認識にくらべ、その基礎とも云うべき”文字学”をもたないという致命的なハンディキャップを負っている。文字認識の本質的問題を解決するために、”文字学”の基礎的研究の充実が望まれる。

 森のいう「文字学」は伝統的な形音義を扱う意味、すなわち字形的特徴を捨象した文字素レベルの研究体系ではなく、字形的レベルの特徴を含むものを意味すると思われる。それは、字体素と同レベルの音韻論ではなく、字形レベルの研究と対照されるであろう音声学を例にしていることからも明らかである。

 また吉村*5は、手書き文字における何らか共通部分と比較的ランダムな部分とについて述べ、文字認識においては共通する部分をいかに見いだすかが問題であり、そのためにはランダムな部分の把握が必要であると述べている。言い換えるなら、情報処理における文字認識は、コンピューターがいかにして実現形から字体素を導き出すかが課題であり、実現形に含まれる共通部分(示差的特徴)と差異にあたる部分とを分離するために、差異を把握しておく必要があるわけである。

 情報処理の文字認識の分野において、少なくともその出発点において、字形レベルの手書き文字研究が必要である、もしくはあったことが理解できる。

 

4−3 筆跡鑑定より

 倉内*6は、筆跡鑑定の識別に関して、表示された文字と文字との類似性や相違性はもちろんのこと、不特定多数という母集団の筆跡が何らかの形で把握されていなければ、公共性のある判断がおこなえないとしている。また、実現形の差異としての「個人内の恒常性」「個人間の希少性」について述べている。「個人間の希少性」を重視する方向性は、文字認識において共通部分(字体素の抽出)に着目したのに対し、比較的ランダムな部分(字形レベルの特徴)に着目しているのであり、筆跡鑑定はその比較的ランダムな部分でも個人内での差異の少ない部分を取り出そうとする営みであると説明できよう。さらに、「不特定多数という母集団の筆跡が何らかの形で把握されていなければ、」というように、無数に存在する実現形の字形レベルでの把握を必要としていることがわかる。

 

4−4 言語学の部分としては

 本章の冒頭に、研究は現実に役だたせることばかりを意識するのではなく、単純な疑問を明らかにすることも重視すべきであろう、としたが、言語学の研究はその傾向が強いといえないだろうか。

 ここで、言語学の文字論に関して、森岡・柴田らのシンポジウム*7における発言を参考に考えたい。柴田は、漢字とかなをまぜて使うこと、一種の外来語でしかも意味と密接な結びつきのある漢字という文字があることによる興味、音韻と文字との関係、そこから生じる言語社会学的問題から、「文字論」の必要性を述べている。その興味は、文字素のレベルでの興味が中心となっており、本稿で意図するところとは異なるようである。

 また森岡は「文字研究には音声学に対応する分野、音韻論に対応する分野、形態論に対応する分野もあるということです。」と述べているが、筆者の理解では、字形的レベルの特徴を捨象した字体素の研究が音韻論に対応し、字形レベルの研究は音声学の一部に対応するのではないかと考えられる。同文献における柴田のグラフィームとグラフ、フォーニムとフォーンの関係に関する説明が分かりやすい。

 音声学に対応する分野、字形レベルの研究分野の存在の可能性について触れられているものの、国語学における興味の中心となっていないことから、既存の国語学の守備範囲外の領域として、新たに考えていかなくてはならない分野であるといえよう。

 

4−5 現在の手書き文字の状況を踏まえて

 現代は次のような理由から手書き文字周辺の変化が著しい。

 これらが手書き文字に変化をもたらす要因であると仮定すると、現代は手書き文字の変化をリアルタイムで見つめられる好機であるといえよう。

 また、この時期に手書き文字研究に関する意識が低い場合、データの蓄積がなされない危険性もある。過去の手書き文字資料として残されているものを見ると、芸術的な意味で優れたものや著名な人物が書いたものは資料として残されて行くが、ごく一般的なものは資料として残りにくい。たとえば、書道でいう名跡や文学記念館等にある手書き原稿などがその例としてあげられる。例外として、木簡・竹簡・残紙・帛書などが歴史を隔てて存在するが、かなり条件が揃わないと難しい。一般の手書き文字を研究する場合、特殊であるが故に保存されたものや偶然にある条件に当てはまったもののみで研究することは、困難を伴うであろう。

 手書き文字の変化をリアルタイムで見つめることと共に、現代の手書き文字に関する資料を保存していくためにも、手書き文字研究の意識化が必要である。

 

4−6 過去の研究の状況より

 日本で体系的に成立している「〜学」といったものは、欧米からの輸入発展によるものが多いと思われる。本稿で述べている課題について欧米には伝統的にGraphologyが存在し、筆跡鑑定と、文字と性格との関連の二点を具体的目標として研究が行われてきた。もちろん、これは本稿で取り上げている字形レベルの内容を扱ったものである。しかもこれらは輸入されており、その発展例として大正期の松本*8などがあげられる。しかしその後筆跡心理学研究などのかたちで続いているものの、手書き文字自体をメインテーマとして体系的に発達するに至っていない。

 また伝統的に日本(中国)において手書き文字を扱ってきた書道・書学書道史(書法)研究は、先に触れたとおり字形レベルの特徴を扱う研究である。しかし、その中心は、美意識・芸術性の問題を中心としており、伝達という面との関わりを持った研究は希薄であったと言えよう。もちろん、西川*9などに代表される、特に優れた文字(碑帖など)でないものを扱った研究も少なくないが、それも歴史的研究に限定される傾向にある。

 さらに手書き文字を扱う前述の諸分野(書写書道教育・文字認識・筆跡鑑定・筆跡心理学)においても、当然研究がなされている。*10しかし、それは各分野の目的に直結したものであり、手書き文字研究としての体系を備えた独立したものではなかった。

 以上が、筆者の考える手書き文字研究の根拠である。

 

5.手書き文字研究のモデル

 ここで手書き文字研究の方法論として、一つのモデルを提案する。

 

5−1 モデルで想定した研究について

 手書き文字の研究といっても、さまざまな目的・テーマ・方法があり、それらを一概にモデル化することは無理である。このモデルで想定した手書き文字研究の条件について簡単に述べておきたい。

 まず、先にも述べたとおり、文字言語運用の全体から捉えると、文字素・字体素の研究に対し、字形レベルの特徴は極めてランダムな変化を伴う部分であるため一般化・理論化が難しい。そこで、何らかの要因によって生じる差異を明らかにするという考え方から、研究のモデルを考察した。

 次に、このモデルで想定した研究のテーマであるが、巨視的には第2章で提示した研究の目的がそれにあたる。さらに詳細なテーマの例に関しては第6章において提示するが、テーマをイメージしやすいように図7を用意しておく。ただしこの図は、理論的に厳密なものではないので、お断りしておかなくてはならない。さらに、研究にあたっては、手書き文字の概念が先行するのではなく、あくまでも過去・現在・未来において現実に「手書き文字(実現形)」と「文字を書く(認識する)という行為」があり・あったという事実、「文字を書く(認識する)人間」がいる・いたという事実が出発点であると考えた。研究対象へのアプローチは、いかような方法でも構わないが、あくまでも科学という枠内でのこととした。もちろんこの場合の科学は、人文科学・自然科学・社会科学のいずれであっても構わない。

 以上のような前提のもとに作成したモデルである。


5−2 手書き文字研究のモデル

 まず手書き文字研究のモデルを図8に示す。

 研究テーマを設定すると同時に、そのテーマを条件としてとらえ直したい。このうち主条件は、特にテーマと直結する条件といえよう。そして、条件のうち統制すべき条件や、さらに細かい調査・実験の中で変化させるべき条件を二次的条件としておく。

 次に対象は、記憶形・実現形・過程(筆記用具などを含む)・主体などが上げられる。さらに、過程の中でも筆順・筆圧・筆速・指の動きといったものから目の動きなどまであり、実現形も文字列並び・文字列・文字・構成部分・点線などにわけることができる。さて実現形を研究する場合は実現形そのものを研究対象とする事ができるが、認識のプロセスや第2章で述べたように記憶形はそのままの形で対象にできない場合があるので、実現形や他の対象を介して調査実験を行う場合が有り得る。ある対象を把握するために仲介させる対象を、二次的対象としておく。アプローチの方法については、たとえば、書字過程を研究対象とする場合において、書字主体の内部を知る必要があれば生理学的なアプローチが必要であろうし、外面的な動きであれば筆速・筆圧測定装置などを用いた工学的アプローチが考え得る。

 以上の計画をたてた後、実験・調査・観察などの方法により、結果を導き出す。またその結果を統計処理などにより一般化する必要がある場合もあろう。

 横書きと縦書きの問題を例にして、もう少し具体的に考えよう。「縦書きと横書きの際の実現形の違いを明らかにする」という例を想定する。この例では縦書きか横書きかという条件が主条件となり、主体の年齢・職業等や、筆記具・罫線の幅・時間などが、統制・変化させるべき二次的条件となるだろう。そして、実現形の文字列並び・文字列・文字・構成要素・点線などが対象として考え得る。またアプローチの方法として、複数の評価者がおこなった主観的な判断を何らかの方法で一般化させるというアプローチや、物差し等で測定したりコンピューターを用いるなどの工学的なアプローチなどが考え得る。関連するテーマとしてそのほかに、縦書きした場合と横書きした場合とでは、実現形の字形レベルの特徴にどのような差異が生じるか。縦書きと横書きで、読みやすいと感じる字形レベルの特徴に差があるか、またその差異はいかなるものか。横書きで読みやすいと感じる字形レベルの特徴を持つ文字を書くためには、どのような筆記具を用い、どのような書字過程で行うとよいのか、また書字能力習得時にどのような環境が望ましいのか。また、手書き文字の場合、縦書きと横書きのどちらが書字・認識しやすいのか。などをテーマとしてあげることができる。


 さて、以上のモデルは、条件を先にあげて、差異・共通点を見いだしていくという方向のモデルである。しかし、この方向とは逆に、ある差異などが先にわかっており、その差異が何によって起こるのかその要因を特定するという研究の方向性も有り得る。この場合を表現したのが、図9である。「差異・共通点」が先に存在し、前モデルの条件にあたるものを、要因として考えれば良い。たとえば、「極めて曲線的な字形的特徴を持つ文字(マンガ文字など)は、どのような要因によって生ずるか」といったテーマは、こちらのパターンとなる。「口」の右上の折れが曲線化しているか否か…などの差異を定め、調査・実験・観察その他によって、年齢・世代・縦書き横書き・筆記具・公私などの要因を探っていくという方向性である。

 条件(要因)・対象・アプローチの手法に関する考察と、実際にこのモデルをどのように用いるかについては、以下の節において考察したい。


5−3 条件もしくは要因に関する考察

 このモデルでは、対象が条件・要因となる場合もある。一つには、概念の考察の部分でも指摘した通り、文字言語の運用において、書字する過程と実現形とは不可分の関係であり、その関係を明らかにすることも手書き文字研究の大きな課題だからである。研究対象として二者の関係について十分な配慮がなされなくてはならない。たとえば、研究テーマ「筆記具の持ち方と字形の関係」を想定すると、研究対象は、

    ・字形(実現形の字形レベルの特徴) ・筆記具の持ち方(書字過程)

ということになるが、その中から主条件として、

    ・筆記具の持ち方 aタイプ    bタイプ(もしくはそれ以上)

を取り出し、その差異を対象としての字形でみるという形になる。これは、逆の場合も有り得るだろう。

 このあたりの考察については、宮沢*11の「書字行為の必要条件と構造」の表が優れている。宮沢は、対象にもなり得る条件・要因を「直接的必要条件」、対象にもなり得るものを除いた条件・要因を「間接的必要条件」として図式化している。分かりやすい分類により、詳細に項目をあげているので、手書き文字の研究を行う際に自らが行おうとしている研究の位置づけのためにも、参考にしておきたい文献である。本稿ではそれぞれ「直接的条件(要因)」「間接的条件(要因)」としておく。

 まず、間接的条件(要因)、すなわち書字・認識過程と実現形・記憶形に直接関わらない条件・要因について考察する。

 差異の生じる条件(・要因、以下同じ)を大きく分類するとき、時間・空間的な分類がまずあげられる。時間的な差異を条件としてあげた場合、時間的な変化はその他の条件(社会背景・時代思潮・教育制度)を変化させ、その他の条件が、書字・認識に変化を与えると考えられるので、そのあたりの考察を十分行う必要があることはいうまでもない。時間に関わる条件に関し、つぎのようにまとめておく。

       (資料・実態を時間に添って並べるのではなく、何らかの差異・変化を明らかにする試み)

 さて時間的な差異を条件としてあげた研究を歴史研究と呼ぶことがある。歴史研究も特別なものと考えるのではなく、主条件を比較したいテーマにし、二次的条件を時代の差・時間的差とする(重要性で逆にもなり得る)ことで、上述のモデルにあてはめて考えることができる。たとえば、縦書き横書きについて歴史的な研究をする場合、研究テーマを「縦書きと横書きとでどちらが自然な筆記方法と感じられるか−昭和二十年代と現代−」と想定すると、主条件は縦書きか横書きか、第二次条件は時代差、第二次条件のうち統制すべき条件として同じ職種・学年での比較をすること、研究対象は書字過程に関する意識、と置くことができる。ただし、研究対象の「書字過程に関する意識」は、現代であれば社会学的心理学的なアプローチとして、アンケートや聞き取り法を用いることができるが、時間を遡って昭和二十年代の人にアンケートや聞き取りをお願いすることはできないので、二次的対象として、記録として残された何らかの資料によらなくてはならない。

 次に、時間以外の条件としてはどのようなものが考えられるだろうか。

 まず書字・認識主体に関する条件をあげてみたい。

 主体に関して

       ・生理的な条件
            年齢 性別 運動能力 利き手 視力 知能 障害の有無 他
       ・心理的特性・心理状態に関わる条件
       ・社会的な条件

            集団的属性(職業等)
            発達環境−地域、日本・日本以外
                 学歴         他

 次に書字・認識する主体をとりまく社会的な条件を考えてみる。

  社会的条件に関して

       ・教育(規制の強弱、手本など)
       ・政策(国語国字政策など)
       ・周辺の文字(ワープロの普及、活字の問題) など

 書字・認識に関する条件のうち、対象になりにくいものを考えてみる。

 書字条件に関して

       ・習得過程               ・写法(聴・視・記憶・思考)
       ・待遇表現−年齢差・地位・立場・親疎  ・具体的環境−明るさ・広さ・騒音
       ・筆記具等(紙・筆記具・机)      ・抽象的環境−急いでいるかなど
       ・書字形式               ・他
       ・書字目的−公私・メモ・自発強制
  認識条件に関して
       ・習得過程
       ・待遇−公私・年齢差・地位・立場・親疎
       ・認識目的
       ・具体的環境−明るさ・広さ
       ・他

 以上あげたものは大まかなものに過ぎないが、研究の目的・テーマによりさまざまな事柄を条件としてあげられるだろう。

 

5−4 対象(条件・要因)に関する考察

 研究対象になり得るもの、また場合によっては直接的条件(要因)として位置づけられるものに関して考察を行う。

 手書き文字研究を科学的な基盤にのせるためには、対象の表現方法やその分類に関して、詳細な検討が必要である。たとえば、次のような過程に添った分類も考え得る。

      ・脳 ・脳から手まで ・手から筆記具 ・筆記具から紙など

      ・実現形から目を通り脳へのフィードバック

      ・実現形

      ・実現形から脳に到る過程

 また対象の表現方法としても、より具体的なものから大まかな抽象的表現まで可能である。ここでは、これまで特に書写書道教育学で用いてきた用語を主に用いて、過程・実現形・その他で分類し提示するにとどめたい。

 ◎過程           ◎実現形      ◎その他
   ・姿勢           ・点や線       ・書字読字意識(文字意識・記憶形)
   ・執筆           ・構成要素      ・筆記具
   ・用筆           ・文字        ・文字素・字体素レベルの事柄
   ・運筆           ・文字列       ・その他
   ・持ち方          ・文字列並び
   ・筆順           ・配列
   ・筆速           ・濃淡
   ・筆圧           ・その他
   ・要する時間
   ・要するエネルギー(疲労)
   ・その他

5−5 条件・要因・差異の構造

 以上の条件・要因を図式化したものが図10である。条件によるグループ間の差異を明らかにしたり、またグループ間の差異の要因を特定する場合もある。この図において自らの研究が、条件によるグループ間の差異を明らかにする研究なのか、個人間の差異を明らかにする研究なのか、またそれぞれの集団・個人の持つ特性を明らかにする研究なのかを明確にしておく必要がある。そして、注意しなければならない点としては、条件によるグループ間の差異を明らかにする場合に、個人間・個人内の差異の方が大きくならないよう、二次的条件による統制やグループ化の方法について、留意しなければならない。


 次に、実現形に生じる差異について、手書き文字研究を応用する諸分野の目的から図式化すると図11になる。

 情報処理の文字認識は、個々の実現形から特徴の抽出をおこなって差異を切り落とし、共通部分の内字体素を求める方法についての研究である。また、筆跡鑑定・筆跡心理学は同様に差異を切り出して、取り出された特徴に注意を向ける研究といえる。書写書道教育研究においては、その目的により、取り出された特徴にも残った共通部分にも注目する場合が有り得るであろう。

 このように考えると、いずれにしても、差異の抽出という部分はそれぞれの分野の共通部分であることがわかる。


5−6 アプローチの方法

 研究対象へのアプローチの方法という表現は、二通りの解釈が可能である。テーマをたてる時点での研究計画全体に関わるアプローチという意味と、手法・テクニック的な意味で、具体的に差異を取り出したり要因を特定したりする方法という意味とがある。先のモデルにおけるアプローチの方法という部分は、どちらかというと後者を想定しているのだが、ここでは前者も含めて考察を行う。

 アプローチの方法を、次のように想定してみた。

    ・独自のアプローチ                      
         −方法論など独自のアプローチが必要なもの

    ・生理学的アプローチ                     
         −書字(認識)を人間の行動として、生理的に捉える   

    ・社会科学的アプローチ                    
         −書字(認識)を人間の行動として、社会の中で位置づける

    ・工学(物理学)的アプローチ                 
         −静的項目はパターン(フォーム)動的項目は運動として捉える

    ・心理学的アプローチ                     
         −書字(認識)を人間の行動として、心理との関連で捉える

    ・認知科学的アプローチ                    
        −文字の認識(書字)を人間の認知行動として捉える

   (・芸術学的アプローチ−これは基本的に書道学、書学書道史で扱う)

もちろんこれらは単独になされるばかりでなく、それぞれ組み合わされる場合も大いに有り得るだろう。

 研究計画全体に関わるアプローチの方法という意味で考えてみると、そのテーマが運動能力・障害の有無などと手書き文字との関係を扱うものであれば生理学的アプローチ、集団的属性(職業等)や待遇表現(年齢差・地位・立場・親疎)などとの関係を扱う場合は社会科学的アプローチ、性格との関係を扱う場合は心理学的アプローチということになろう。

 次に、具体的に差異を取り出したり要因を特定する方法・テクニックという意味で考えてみたい。以下の説明では、これまで伝統的に書写書道教育研究で用いられてきたもの、独自のアプローチが必要なものについては、省略する。まず、実現形から特徴を抽出する方法から考えよう。押木は前述の文献において、実現形の字形レベルの特徴をより客観的に取り出す方法についての研究を紹介した。多人数で実現形を観察しそれを統計処理するという方法が心理学の分野で、また専用のスケールを用意して測定するという方法が欧米の筆跡学で、コンピューターの利用が情報処理文字認識などの分野で用いられている。テクニック・方法的な意味でこれらのアプローチは、参考になろう。

 書字・認識過程ではどのようなアプローチが可能であろうか。筆記具の動きを捉える部分では、筆速・筆圧測定機の利用などの工学的アプローチはかなり以前から行われている。脳から手の動きまでの部分や、認識に関しては、生理学的なアプローチが最も直接的であると思われる。脳や神経系の働きを見るための機器が開発されている現在、興味深いものがある。また、認識などに関しては、心理学の研究方法が進んでおり、実験やアンケートから明らかにする方法などが有効であろう。また、人間の感じることをコンピューターでシュミレートするテクニックなども、認知科学の分野で用いられており、参考になるところである。岡本・押木ら*12の評価の研究もそれに近い。

 次に記憶形・文字意識に関してはどのようなアプローチが可能であろうか。まず、内面的なものを探るという意味で前述のように心理学・認知科学の手法が考えられる。また地域・社会における文字意識の変化などを探る際には、社会言語学の手法を参考にできるだろう。

 以上の方法に加え、これまで行われてきた書写書道教育研究の手法を用い、また独自の手法を開発していく必要があることはいうまでもない。

5−7 モデルの運用例

 以上考察してきたモデルに、対象・条件(要因)・アプローチの方法を組み合わせることで、大まかな研究計画ができあがる。ここでは簡略化した例ながら、先にあげたモデルが実際にどのようなかたちで用いられるか具体的に例をあげる。図8と図12とを対照しながら見ていただきたい。まず第一のパターンは、「筆記具の持ち方と字形の関係」というテーマで研究を行う場合を例としたい。なお、この例は、福宿*13を参考にさせていただいたことを明記するが、あくまでも仮構であることをお断りしておく。二次的条件を一定にした被験者を、筆記具の持ち方でグループ化する。また、その被験者の書いた実現形、特に点画の形状と方向を多人数の観察により、いくつかのタイプにわける。そして、それらの間に関係があるかを調べるというものである。実際の研究では、さらに複雑になるであろう。


 次に、図9と図13とを対照しながら見ていただきたい。第二のパターンは、「線の曲線化の要因について」というテーマで研究を行う場合を例とする。なお、これも仮構であることをお断りしておく。実現形における曲線化の要因を探るために、「口」という字を対象としГ部に着目する。さまざまな被験者の書いた実現形のГ部を、基準となるスケールにより分類し、年齢・公私・書字方向・性別・筆記具などの要因の内、いずれが実現形のГ部の曲線化と関係する主要因であるかを特定するというものである。


5−8 モデルに当てはまらない諸研究に関して

 さて、前述のモデルに当てはまらない研究にはいかなるものがあり、どのように対処すべきか。まず、次に分類されるようなテーマは、モデルに当てはまらない。これらについては、それぞれの研究成果が報告されるのを待ちたい。

 ◎全体論
  ・目的・テーマに関して  ・応用に関して   ・他

 ◎方法論
  ・対象に関する考察  ・条件に関する考察
  ・アプローチの方法  ・データの収集法  ・他

 ◎研究史

 

5−9 モデルによる諸研究の集約について

 モデルに当てはまらない研究について続ける。先にあげた部分以上に考察が必要なのは、「〜と〜の差異」・「〜と〜の関係」という捉え方ではなく、「〜の特徴」という捉え方をする場合である。たとえば、「現代中学生の文字の特徴」であるとか、「左利きの人の字形について」などというテーマである。「〜の特徴」という捉え方をする場合にも、前述の図8・9のように条件を付けて「〜と〜の差異」という考え方によるモデルによらなくてはならない。複数の実現形の間には必ず差異が存在し、また〜の特徴は〜の補集合の特徴があって成り立つからである。「左利きの人の字形について」は、「右利きの人の字形」という補集合との比較なしに考察したのでは無意味であり、「現代中学生の文字の特徴」は現代の中学生以外という補集合との比較がなくてはならない。図10を見返してほしい。現代中学生」を一つの条件によるグループだとすると、他に「現代高校生」「現代社会人」…などというグループが存在しそれらが補集合となる。また「大正時代の12〜15才」という考え方からも、通時的な補集合が生まれる。その中で、グループ間の差異を見きわめる必要がある。またそれらの差異が、個人間の差異によるものでないことを考察しておく必要もある。すなわち、図10においてグループという「集団の持つ特性」を明らかにすることが、「〜の特徴」という捉え方になる。そのためには、まず差異を明らかにすることから始めなくてはならないのである。        

 このように考えてくると、今後の手書き文字研究の順番として、とりあえずある条件によるグループ間の差異とグループ内の差異を捉えることから始め、その差異の集積により、あるグループの特徴を把握する。そして、それらの差異や集団の特徴の集積により、一見ランダムに見える手書き文字全体を明らかにすることができるのではないだろうか。     

 

6.研究テーマに関して

 ここでは、前述のモデルに拘束されることなく、具体的テーマの例をあげておく。本来、手書き文字全体を明らかにするために、整理したかたちで提示すべきところであろうが、現段階ではあくまで例を列挙するにとどめさせていただく。テーマは限りないほどにあるわけだが、以下三つの視点をもとに例を上げてみたい。

 

6−1 例(巨視的なテーマ)−手書き文字運用の過程にそって−

 先に述べたとおり、文字言語の運用においては、過程と何らかの形態とが不可分の関係であり、以下の方法による研究テーマの分類は不適切な面もあるが、便宜上それによって巨視的なテーマを列挙する。

 

◇認識を中心として

◇実現形(文字・文字列・文字列配置)を中心として

◇書字過程を中心として

◇書字能力習得時を中心として

◇その他(全体論・方法論・研究史)

6−2 例(対象を限定して)−筆順を例として−

 書字に関する具体的な要素として、既成の概念である筆順を例にあげ、テーマを想定してみた。あくまで例であり、その題目に無理があることには、ご容赦願いたい。

 ・筆順

    独自の研究
        「筆順と字形の整い方の関係について」
        「字体素の記憶と筆順の関係について」

    生理学的研究
        「筆順の有効性について−健常者と障害者の比較から−」

    社会学的研究
        「規制の強さと筆順の守られる率の関係について」
        「世代と筆順の守られる率の関係について」

    工学(物理学)的研究
        「書字速度と筆順について」
        「筆順と書字の運動量の関係について」

    心理学的研究
        「筆順の遵守率とパーソナリティ」

 

6−3 例(アプローチの方法から)−社会学的研究−

 アプローチの方法として、社会学的アプローチを例に、テーマと関連する条件を列挙する。

7.まとめ

 本稿は、一見ランダムに見える書字行為とそれによって生じる文字について、ある要因によって生じる差異を一般化・理論化できるのではないか、という前提からスタートした。そして、それらの差異とそこから導き出されるグループの特徴の集積から手書き文字全体の構造を明らかにしていくことが近道ではないかと提案した。それを現実におこなっていくためには一つ一つの小規模な研究の積み重ねが必要であり、小規模な研究は同じ共通理解の上に成り立ったものでなければ統合が難しいと考えられる。本稿は論理的な整合性などひどく未熟であるが、あえてこの段階で提案したのは、その共通理解を作り上げていくためのサンプルとして例を上げたかったためである。また、小規模な研究が何を対象として行われるべきなのかという問いに対して、対象・条件・アプローチの方法・テーマについても簡単な考察をおこなった。今後徐々に共通理解ができあがっていくこと、そして研究成果が十分に公開されることが重要な鍵となるであろう。またそれらの小規模な研究を、手書き文字の全体像として構築していくための方法論も今後早い段階で考察する必要があるだろう。

 本提案の修正、また新しい考え方により、手書き文字研究の基盤が確実なものとなり、更に具体的な研究の積み重ねにより、手書き文字の姿が明らかになることを期待したい。