これらの要素のうち、印刷用文字に関する研究は、数多くなされている。原田1・2は、明朝体と筆写文字の間に見られる差異について、阪本3は子供と明朝体の関わり方についての問題点を上げている。また、柘植4のように、明朝体と実際書かれている筆写文字の字形上の違いを述べているものもある。ただしそれらは、現代の具体的な書字行動との比較ではない。
筆者らは、手書き漢字字形の多様性とその要素を大まかに把握することを目的とし、大学生100名を対象とした110字種の調査をおこなった。そして、そこに現れている特徴を、印刷用字形との関連、書きやすさに関する要素、覚えやすさに関する要素、形の取りやすさによる要素によって、考察を加えた。本論文では、これらのうちから、特徴的なものについて報告する。
なお最初に、いわゆる教科書体すなわち『小学校学習指導要領』5における「学年別漢字配当表」についての筆者らの認識を示しておく。これは、字体としての標準を示したものではあるが、字形をのぞいて学習することはできないことから、結果としてこの字形を参考にして指導がなされているのが現状であると理解した。重要なのは、印刷に多く用いられている明朝体でない書体をもって示している点である。教科書体は、より手書きに適した形で字形を示したものと理解するのが自然だと考え、以下の考察をおこなった。
金沢大学学部学生(1年生〜4年生) 男子:50名,女子:50名 計100名(有効回答数)
2. 調査日 1995年10月
3. 書字条件
※ 以上の調査により、110字種 × 100人 = 11000文字のサンプルを得た。
また、比較対照した印刷用字形は、
比較的小さい箇所は続けて書くが、大きめな箇所は二画で書くということに着目した場合、明朝体の字形の特徴を捉えている被験者も、細かい部分になると機能的な一筆で書く方を選んでいるという推測ができる。
これらについて平均すると、<口>形を縦画がでるパターンで書く比率は22%、逆に<日>形を横画が出るパターンで書く比率は13%となる。これらの内訳を示したのが、表 5と表6である。なお、今回の調査においては、分類できないものあるいは判別不能のものをのぞき、「」「。」2つに分類し、パーセンテージで示した。
まず<口>形について表 5から、字種により30%以上の差が見られることがわかる。縦画がでるパターンの比率が最も高いのは、「口」であり、先の転折強調と同様に、もっとも大きく特徴があらわれる字種である。さらに、その部分形と比率とに関連があることがわかる。まず、部分形が「口」であり、それも部分形「口」が文字の最下部に位置する字種が、上位を占めている。「口」をはっきり意識しやすい場合に、明朝体の特徴があらわれやすく、明朝体で学習したパターンが意識されにくい場合に、より機能的な書き方が出現する。
次に、<日>形について、表6を見る。字種により、20%近い差が見られる。この差は、その部分形の縦横比と相関があると考えられる。「口」と「目」などの接し方からの連想だと考えられる。被験者の中には、内側に点画が存在するかどうかではなく、縦横比で判断している人がいる。書写指導の不足点と言えよう。
明朝体の特徴が現れている場合が16%あり、これは純粋に明朝体の特徴を表現していると考えられる。また、中間的なパターンが5%見られる。
3 -3 -2 しんにょう(表8)
明朝体の特徴が現れている場合が22%見られる。ただし、明朝体の特徴を覚えているためか、点画を単純化するという書きやすさのためなのか、断定はできない。
筆者らは本研究において、はねを二種類に分けて考えている。図4のように、隷書体の時代は波磔であったものが行書体になると省略されるもの(例:「北」)と、逆に隷書体の時代にはなかったはねが行書体になるとあらわれるもの(例:「月」)とがある。前者は装飾性のはね、後者は機能性のはねと考える。
この考え方から、調査対象字種のうち、筆者らが装飾性のはねと判断したものが、表9である。「四・西・窓」において、明朝体型の特徴であるはねがほとんど見られない。これは、教科書体の学習に加え、機能性が優先されている結果と言えよう。
また、「北」もしくはその部分形を含む字種では、教科書体・明朝体ともにはねている。結果は、単独形の「北」ではねる場合が96%とほとんどを占めるのに対し、部分形の「北」になると68%とやや少なくなる。これは、「背」の場合、「北」の5画目を上にはねると、次の画(「月」の1画目)へつながりにくくなるためだと思われる。同様に「能」は、10画目に対し、8画目の方が「とめ」にする場合が多いのは、下への連続性に対して非機能的に働く運動は避けるためと推測できる。
「改」のみが、教科書体ではねないにも関わらず、過半数がはねる結果となった。この原因は、明朝体の影響、部分形単独の字種「己」の影響の問題、右部分形への連続が比較的容易であるという3点から考えられる。
これらの結果から、装飾的要素は省略される傾向があること、部分形になると装飾的要素は減少するという二点が確認できる。また、他の部分形や単独字種の影響も考察すべきであることがわかる。
4 -1 -2 はらいの省略
筆者らは、はらいのうち多くを装飾的要素と考える。表10の「青」「朝」のように、明朝体・教科書体ともに同一の特徴を持つ場合、印刷用字形のパターンの比率が高いことがわかる。「青」のように「月」が下にくる場合、「月」の1画目をはらうと形が取りにくいため、自然に形の取りやすい形状で書字しているという推測もできる。
明朝体と教科書体で特徴が異なる場合は、基本的に教科書体のパターンが多くみられた。ただし、「矢」をのぞく「医・恩・園」については、明朝体のパターン(はらわない)が多くみられた。同じく表10の「外」は、教科書体のパターン(はらわない)が多く、逆になっている。このことから、表10のはらいの問題は、印刷用書体の差異とは別の要素が強く働いていると言えよう。
「矢」に比べ「医」のはらいが50%も減少することについては、部分形の「矢」の占める割合が小さくなり、はらうことが難しくなるためと思われる。また、「恩」「園」も同様である。以上より、印刷用字形の影響よりも、書きやすさすなわち装飾的要素の減少が優位に働いていることがわかる。
なお、これを中学校等における行書学習の成果として捉えてよいだろうか。本稿においては限定できないが、その判断材料として、部分形「木」のはらいの問題が上げられる。中学校等における行書学習において、部分形「木」のはらいをとめにするということは、極めて基礎的な事項である。しかし、字種「木」に比べ、「条」の部分形「木」は10%程度の減少にとどまり、「矢」の減少50%とは対称的である。
微細な部分であるが、明朝体で接している部分が教科書体で離れている場合と、明朝体では明らかに交わっている部分が教科書体で接するにとどまっている場合とがある。表 11がその例としてあげられる。
接離について見た場合、明朝体・教科書体ともに接している字種は、80%から90%が接しているが、明朝体のみで接している字種は、10%から20%程度である。これには、教科書体の優位のほか、きちんと接するよりも離した方が書きやすいという要素が推測できる。さらに、「又」の場合、篆書・隷書の造形がいまだ生き続けているという見方もできる。
交接について見た場合、明らかに交わる書き方すなわち明朝体型が圧倒的となる。これには明朝体の優位のほか、きちんと接するよりも交わらせた方が書きやすいという要素が推測できる。さらに、「才」の場合は、カタカナの「オ」との混同を防ぐ意図が自然に働いているという見方もできる。
この結果を総合すると、明朝体・教科書体の優位よりも、書きやすさの要素によって左右されているということが言えそうである。
また、字種もしくは部分形の「木」のはらいの接し方について、表12に示す。木が部分形になった場合、行書指導において「ホ」形に作ることは基礎的な内容である。これを接し方から見た場合、「木」から「条」において20%程度、離れる場合が見てとれる。
4 -2 -2 「北」
接し方の問題として、表 13に「北」の接し方をあげた。教科書体型、2画目の終筆が3画目の終筆の上にあるものが94%とほとんどを占める。2画目の終筆から3画目の始筆までの連続性と、3画目から4画目への連続において交わりを避けるためから、教科書体型の方が、運動的にも有利だと考えられる。
書きやすさを示す要素として、本来二画として書くべき所を連続させて書くことがあげられる。筆記具の上下動と空筆部の減少になるからである。
まず、連続の問題として、横画からはらいもしくは斜めの画への連続について調査した結果を、表 14に示す。連続を示す比率は、最大の「絵」(10画目と11画目)の24%から、最低の「差」(6画目と7画目)の6%が見られた。
このような差の生じる原因として、「差」は教科書体・明朝体ともに7画目が4画目の左に接しているため、連続のための変形が大きくなりがちであることがあげられよう。
対(2画目と3画目)は、 連続が10%である。中学校書写教科書の行書体の例としては、図5のように連続する場合としない場合の両方が見られるが、古典においては旧字体の「對」の行書しか見られない。さらに「対」の左部の部分形としてイメージされる「文」の行書例からも草書の表現をのぞけば、連続例は見られない。このような古典に見られるか否かが、現在まで影響を与えている可能性も否定できない。
次に、左はらいから横画への連続について、表15に示す。今回の調査では、連続が34から5%見られた。様々な要因が考えられるが、画数との相関係数を求めたところ、0.67を示した。細かい部分ほど連続が見られると言えそうである。
4 -3 -2 いとへんにおける連続
表 16のように「糸」において、1・2画目を1ストロークで書く場合が10%見られる。この特徴は、単独形の「糸」よりも、部分形の「糸」の方に多く見られ、さらに部分形が1字の中に占める大きさが小さくなると、書きやすさが先行して、連続が起こりやすくなるものと推測できる。
4 -4 -1 曲がりの省略―あなかんむりと「四」―(表17)
「窓」の穴かんむり(5画目)において、明朝体・教科書体ともに曲がりを含むのに対して、曲がりを含まないパターンが7割近くも見られる。単独形である「穴」の形と、下部の「ム」を含めた「公」との関係なども推測できるが、極めて高い比率と言えよう。穴かんむりを含む他の字種についても調査する必要がある。
次に「西・四」の場合、曲がりのあるパターンが、68%・84%と、過半数を占める。これらの字種の場合、次の画への連続の容易さも書きやすさの要素と言えよう。
なお、「西」の方が「四」よりも曲がりの省略が多く見られる。これも、一文字の中に占める部分形の大きさの比率が違うためではないかと思われる。また、「西」の場合、「価」の右部の影響があることも推測できる。
4 -4 -2 いとへんの行書化
いとへんの行書的表現は、表18に示すとおり、4%と比率が低い。少なかった理由として、「漢字の書き取りテストのつもりで」という条件で調査したこと、行書指導の不足といったことが推測できる。
はらいを横画にする場合は、高い比率のものもみられる。「北」(4画目)と「考」(5画目)とが42%・45%と近い数値となっている。また、「称」(1画目)と「風」(3画目)が比較的近い数値11%・7%となった。「考」「風」「北」の3字種は、中学校における書写教科書において、行書もしくは許容の例として、横画に書いても良いとしている字種である。一方、「称」に関しては、のぎへんの1画目を横画として書いている例は見られず、書写指導のテキスト10においては、短い左払いを横画にしてはいけない文字例の一つとしてあげている。にもかかわらず、のぎへんの横画例は、「風」以上の比率を示している。この点から、中学校での書写指導が、今回の調査における<書きやすさ>を左右しているということはできないようである。
つぎに、点の形状を表 21に示す。縦方向へのストロークを持つ点(明朝体・教科書体)と、横方向(明朝体)もしくは斜め方向(教科書体)へのストロークを持つ点があるわけである。調査結果を見ると、全体として斜め(教科書体)方向へのストロークを持つ点が、ほぼ過半数となっている。加えて、横方向(明朝体)へのストロークを持つ点は、1割にも満たないことがわかる。ただし、印刷用字体における点の使い分けによって、10から20%の増減が見られ、この点の形状を被験者の一部は捉えていることがうかがえる。点の接離と同様に、形状においても、二種存在することの意味が問題となる。
この印刷用字形の点の接離および形状の差は、何によって生ずるものであろうか。これらの部分形の篆書体について、図6に示す。これを参照する限り、差は篆書体の形状を残存させている結果であると言えそうである。現代の字種構成からいっても、この差が識別要素となっていない以上、調査結果にこの使い分けがあらわれなくとも当然といえよう。また、別の見方をすれば、教科書体において二種類の点を用いることは、覚えやすさという点において、無意味な差を作っているともいえるだろう。
以上、各項目各要素ごとの分析では、推測の域をでないものであったが、全体を通して、ある程度のまとめができるであろう。比率の算出や統計的検証は、おこなわないこととして、次のようにまとめられると考えた。
○ 基本的には、教科書体に準じた表現が多い。(明朝体に準じた表現が過半数を超える場合もある。)
○ 明朝体型の表現が過半数となる場合や、両書体に見られない特徴があらわれる要素として次があげられる。
以上において、当初の目的である印刷用字形の影響・書きやすさ・覚えやすさ等の要素について概略を示してきた。書きやすさの要素の中には、書写指導の成果とは言えない結果や指導の課題も散見された。一つには、大学生ともなると、学校で習った教科書体の漢字より、書きやすさを優先した表現をしているためと言えよう。字形成立段階の縦断的な調査は今後の研究課題である。統計的分析の必要性の他、研究課題を列記しまとめとする。