書写書道特論レポート

手書きすることの意味

-携帯電話の省略された文字から-

                  国語コース ****

青字は、授業担当者のコメントです。



   ◎簡略化された文字から考察にはいるところなど、とても発想が良いと思い
	ます。高く評価します。文章もわかりやすく、けっこうです!

 これからの子供達に必要な文字教育とは何だろうかと考えた時に、子供達が接する文字について考えた。教科書を初めとする紙に印刷された活字、自分や友達、教師や親などの書いた手書きの文字の他、パソコンや携帯電話のメール機能で使用されている文字などの存在は無視出来ない物になっていると思う。
 その中で携帯電話のメール機能で使用されている文字についてみてみると、例えば「連絡」と表示する場合、「連」の五画目と六画目は融合し、「絡」の一画目は折り返しから省略される。文字サイズを大きくすれば一画一画きちんと表示されるが、基本サイズではこのような省略が行われているのである。


	今から20年ほど前のパソコン用プリンタでも、同様のことが起こって
	いました。漢字を正しい字体でプリントするには、極めて高価なプリンタ
	が必要でした。で、人々は、正しい字体でプリントすることをあきらめた
	かというとそうではなくて、機械の方を進歩させました。さて、一体、
	携帯電話の画面の字体となるのか、それとも、機械(携帯電話)が進歩する
	のか、どうなるでしょうね? (興味)

 しかし、我々はその省略を気にすることはほとんど無い。例え省略されていてもそのまますんなりと読め、整って見えて読み易いと感じるのである。文字の特徴を捉えているために、多少線が足りなくとも狙った漢字に見えるというわけである。これは、物の形の特徴を捉えた象形文字が省略されて今の漢字になったのと同じ理屈と言えると思う。書体は篆書から隷書、隷書から楷書に変わるのがそれぞれ約四〇〇年だったそうで、楷書になってからは約一四〇〇年もそのままである。四〇〇年周期の二,五倍も経っているのだから、いつ変わってもおかしくはない。携帯メールの文字の省略は必要に応じての「進化」と言える――とはいかないだろう。一四〇〇年も固定され、生活の中に浸透している漢字が変わるには、中国で行われたような国家的政改革でもなければ無理であろう。


	確かに「いつ変わってもおかしくはない」と捉えるか、逆に「そう簡単には
	変わらないだろう」と捉えるか、両方の選択肢がありそうですね。

 それでも携帯電話のメール機能の文字は省略されている。使用者はそれを受け入れる。おそらく多くの人がその省略に気付くことも注意を払うこともないのではなかろうか。

 このことから二つのことが言える。

 一つは、文章全体をみた時に文字が揃っていれば、多少の省略があっても整ったきれいな文字列として読めるということである。「きれいな字」と「読み易い字」は必ずしも一致しないというのは、授業の中でもうかがったことだが、それと「正確な字」というのも必ずしも一致するものではない。


	当用漢字表が出たときの資料などを読むと、省略に関する意識が読める
	と思います。

 もう一つは、自分の手で書くわけではないから省略に気付かないのではないかということである。私が省略に気付いたのは、手書きで文章を書いていた際にわからない漢字があり、手元に辞書もなかったために携帯電話のメール機能を使ってその漢字を表示してみたからである。
 「読めるけれど書けない」という文字は誰にでもあると思うのだが、その数は増加傾向にあるのではないかと思う。何故なら、自分で書けなくともパソコンのワープロ機能や携帯電話のメール機能が変換してくれるからである。同音異義の漢字についても、意味が表示されたりするので変換時に確かめることが出来る。

 パソコンはどんどん生活の中に浸透しつつある。携帯電話も同様である。それは自分の手で文字を書く機会が減っていることでもある。このまま手書き文字の立場は弱くなっていってしまうのだろうか。それは寂しいことに思える。公文書の類は誰にでも等しく読むことの出来る活字のほうがよいのだろうが、手書きには個性が表れて味わい深い。電子メールばかりでなく手書きの手紙もよいものである。しかし極端な話、それだけでは手書き文字は嗜好品ということになりかねない。

 手で書くと脳に刺激が行っていいと聞いたことがある。多分パソコンに向かってキーボードを叩くよりも有益な刺激を与えるものではなかろうか。そういった面からも、手書きの有用性を唱えることは出来ると思う。

 また、漢字は表意文字である。文字は単なる記号であるとも言われるが、成り立ち等はとても面白いと思う。何故今の漢字になったのか、筆順の意味も含めて文字の成り立ちをみていくことは、新しい世界が広がることである。そういうことをやっていけるのが「ゆとりの学習」なのではないかと思う。

 生活を豊かにするものとして、文字を手で書くことはまだまだ必要であると思うのである。