書写書道特論レポート

書写に関する現場の問題点から

-児童の状況・教材・評価・行事-

言語系国語コース  飯塚 澄人

青字は、授業担当者のコメントです。


1 はじめに

 筆者は12年間教職にあり,ほとんど毎年書写の授業を行ってきた。授業の内容・方法は,新採用の年に先輩教員の授業を見たり教えてもらったりしたやり方で,授業は正にお手本主義であった。教科書にある手本の字の字形について説明した後,児童は教科書をよく見てそっくりに真似する,時間の最後に清書をして1枚提出する,というパターンであった。2〜6年生までの各学年で,2年生は硬筆のみ,3年生以上では毛筆,硬筆の授業をそれぞれ行ってきた。ほとんどが週に1回,時間表の中に位置付けられた時間の中で行った。その中では,自分が行っていた授業に疑念をもつこともなかった。
 しかし,今年度,この講義を拝聴して,今までの自分の授業の至らなさに気づき,目からうろこが落ちる思いであった。そこで,このレポートでは,毛筆の授業を中心に,講義をいただいた以外の部分で,自分の経験と現場で感じていたことをふまえ,現在の書写授業の問題点を洗い出したい。

 授業中に学習内容についていくつか確認させてもらったわけですが、飯塚さんの書写指導のための知識等は、(これまで接してきた現職教員の人も含めて)極めて高いものがあったと思います。少なくとも、飯塚さんが学部学生であった時点での重要事項は、確実に踏まえられていることがわかりました!
 これだけの基礎知識をもっていて下さる人がいることがわかっただけでも、またきちんと書写の授業を実施していてくださることを知っただけでも、大変うれしく思いました。

2 現場の授業の問題点

(1)児童の状況

 書写ほどおおかたの児童のモチベーションの低い教科もないのではないか。 まずは,児童が自分の書いている文字をよりよくしなければならないという必要感を感じていないことがあげられる。

 いくつかの調査では、「書写が楽しい」と思う児童の比率は(3年で少し回復するものの)ほぼ1年生から6年生に低下すること、「字を上手に書きたい」と思う児童の比率は比較的6年生まで持続し、中学校で一気に下がることが言われていました。実態は、アンケート調査と異なること、また、パソコンの普及などでモチベーションが低下することなどが予想されますね。

 男子の書きなぐったような文字は,丁寧に書かねばならない必然性を感じていないのであろうし,女子のまんが文字に代表されるデザイン化された文字は,かわいいととらえて楷書よりあえてそういう形で書いているのである。文字は自分だけのものではなく,自分が書いたものであっても公共のものであるという意識をいかにもたせるか。いかに自分の文字の特徴なり問題点なりに目を向けさせるか。そこがまず大きなポイントになるように思う。必要感がないからこそ,書写の時間だけは手本にあわせてきちんと書くものの,その他の場面ではもともとの文字になってしまうのであろう。

 私自身の専門は、内容論(一部教材論)=「手で文字を書くこと」ですが、今後は、

などに目をむけ、力を入れて行かねばならないと感じています。

 また,書道塾に通っている児童と,そうでない児童の力の差が大きいことも一因として考えられる。サッカーや水泳といった運動系,あるいは学習塾や珠算塾といった具合に,家庭に帰ってから習い事をしている子は少なくない。これらと書道塾はなにが違うのか。筆者は,1.基本的な技術の習得,2.作品として残ることに相違点があると考える。
 経験上,塾に通っている子といない子では,当然のことであるが,技術的に大きな違いがある。筆をそろえて,といった程度の始筆の段階から大きな違いが見られる。毛筆は,水泳などと同じように,日常生活の中でほとんど行われることがない。それだけに,専門の先生にきちんと基礎を習っているか否かは,児童にとって大きなちがいとなる。加えて,学校の授業においては,塾に通っていない児童は,口うるさく注意されることはあっても,ほめられる機会がどうしても少なくなる。大人数の一斉授業では,上達した実感や課題を達成した満足感が得られないことも考えられる。さらに,書写の場合,教室内に作品が掲示されることがままある。習い事といっても,ピアノや運動関係は,瞬間のものなので,形として残って再三目に触れることはない。学習面での塾には通ってなくともできる子も多い。ところが書写では,朱墨で二重丸や三重丸がついた作品と,何箇所も直された作品とが並べて掲示されるのだから,字のうまくない児童にとっては,劣等感をもつことも否めない。作品を貼りだすことに,教育的効果を見出せれば別だが,必ずしも貼り出す必要はないのだろう。この面からも,児童のモチベーションの低下を招いているように思われる。

 このあたりは、学習方法の工夫で、ある程度緩和することができないでしょうか?!

(2)教材

 全員が同じ文字を書くことに抵抗を感じ,「自分の好きな熟語」「自分の名前」といった課題で書写の授業を行う同僚がいた。少なくとも,教室内に掲示したときに,隣の児童と比較されるといった前述の問題は解消される。
 しかし,指導内容は何かを考えた時,好きな文字を選んで書いているだけでいいのだろうか。「三」とか「宇宙」とかといった教科書に取り上げられている文字には,筆づかいなり文字の形なりといった学習すべき内容が包括されているはずである。自分の選んだ文字のみを書いているだけでは,その内容は学べないのではないか。少人数学級やTT指導体制であれば,個別指導を行う中で,学べることもあるかも知れないが,実際の所,多くの学校現場ではそのような体制を整えるのは難しいといえよう。

 教師用指導書などに、「同じ学習内容が(この学年なら)この字でも勉強できるリスト」などがあれば、良さそうですね。しかし、実態として、そこまで使いこなして下さるかどうか、、、難しい感じもしますが。

 しかし逆に,教科書に載っている文字を順に与えていることが果たして児童の文字の習熟につながるのだろうか。専門家が考え抜いた教科書であるから,系統性を考えれば否の打ち所がないのであろう。反面,児童は与えられたものを否応なしに書くことになる。児童に,この字を書かなければならない,といった目的意識がないわけであるから,これはまたモチベーションの面で問題があるのかもしれない。

 最近では教科書も「手本集」的なものからの脱皮をはかりつつあるように思います。以前は、手本集を教えている教師がいたり、一方で手本集を用いて書写の学習を展開していた教師がいたりしたわけです。最近では、「なぜその練習をすると良いのか」を学習者に問いかける教科書などもあり、児童らが考えられるように工夫されつつあります。果たして、効果のほどはどうかと思っています。

 児童の実態に合った学習内容を含んだ文字を,どういう形で与えるか。書写の教材研究は,現場ではほとんど行われていないのが実情であるが,問い詰めると難しい問題である。

(3)評価

 従来の評価は,清書された作品をもってその良し悪しを評価することが多かったように思う。教師としては,形として作品が手元に残っているのだから,あとで朱墨を入れることで評価ができ,簡易だからだろう。この作品主義は,前項で何度も叙述しているように,書写嫌いを生み出している。
 では,自己評価やポートフォリオといった評価はどうだろうか。
 ポートフォリオは,ためたものをどう活用するかが問題になってくる。ただ書いたものをファイルしておくだけでは,ポートフォリオとは言えまい。

 学会/研究会などにおいて、ポートフォリオの研究などもでているのですが、まだまだ十分な成果にまでなっていないなぁと思っています。

それを元に,字のくせなり,がんばりや上達具合なり,修正すべき点なりが見える形のものであることが必要である。では,それを誰が見るのか。四月に書いた文字と二月,三月に書いた文字とを比較して,ここがこう上達した,と児童が言えるだろうか。自己評価ともかかわるのだが,文字のどこがどうよくてどこが悪いのかを見る審美眼が,入門期の児童にあるとは考えがたい。自分のがんばりについては自己評価できるが,学習内容にてらし合わせて到達しているかは,自己評価ではしづらい思われる。

 そうですね。自分の字のどこが悪いか、などは、大人でもよくわからないですからね。一方で、実習生の筆順の間違いを指摘する小学生がけっこういることを思うと、視点を明確に与えることで、かなり細かい点に着目して評価できる可能性もあるかなと思っています。これも教師の「育て方」にかかってはいないでしょうか。

すると,おのずから教師が見て直してあげるしかなく,ポートフォリオの課題である,教師の負担増につながってくる。
 もっとも,書写を通知表や指導要録等の評定に大きくかかわる評価とする学校は多くないと思われる。とするならば,書写の評価は,形成的評価として,児童にフィードバックできるような評価として考えればよいのではないだろうか。個に応じた,次の学習に生かせる評価を,授業の中の声かけでも,作品を通してでも本人に伝えることができれば,それが一番なのである。

(4)行事等

 作品主義からの脱却の障害になるのは,文化祭や書き初め展,各種コンクールへの参加といった,正に作品を完成しなければならない行事が,学校現場には少なくないことである。 文化祭に出展する場合,絵画などでは一人一人が構図や色使いが異なる絵を描くため,その上手下手は一概には言えないことが多い。ところが書写作品では,同じ文字を全員が書くこと,観覧する保護者がある程度こういう字がよい字であるという審美眼をそれぞれ持っていることなどから,どうしても一定のレベルの作品を作っておかねばならない。文化祭という行事そのものを,「学習の成果を発表する場」といったとらえ方をする以上,仕方ない面ではある。
 単なる比較がしづらいように,各々が書く文字を変えることもあるが,前述のように望ましいとは思えない。近年,ただ作品を展示するだけの文化祭ではなく,当日作品をみんなで作ったり,作る過程を楽しんだりといった,参加型ともいえる文化祭が行われるようになってきたのも,一つの試みであろう。しかしこれもまだ一般的とはいえない。

(一般的になれば)いいですね!  各種コンクールの問題では、「違う文字を書く」という先の方法使えそうに思うのですが、なかなか大勢は変わらないでしょうか。

3 おわりに

 残念ながら,以上の問題点を解消する方策として,このような授業を行うことが望ましい,という提言を筆者は行うことができない。今回,このレポートを書くにあたって,数冊の本を読んだ。筆者の授業の至らなさは,自分の勉強不足に起因するのだと痛感した。授業の流れや教材の工夫は,ちょっと調べただけでも数多くあることを再確認したような状況である。実際の現場では,それらを複合的に用いることで,児童の書写の力を伸ばすことができるのであろう。どうしても,国語の研修というと,物語文の心情はとか,説明文の要旨のとらえさせ方は,話し合いの仕方は,という方に目が向き,書写は軽んじられがちともいえる状況が現場にはある。私たち教師は,少し意識改革をしなければならないと感じているところである。

 一般論として、国語全体の1/10くらいでも、書写の授業研究に回してもらえたら、ずいぶん変わりそうに思います。毛筆で書くことも、またそれに限らず、ただ手で書くということも、ほんの少し意識してもらえる教師が増えてくれることを祈ります。

参考文献