書写書道特論レポート

手書きの現在、そして未来…

言語系国語コース 百木 彰


授業担当者コメント

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  半年間、聴講して「文字を書く」ことについて改めて考えることがいくつかありました。そのうちのひとつのことに焦点をあてて書くことにします。それは、「手で書くこと」の現在のこと、あわせて未来(今後)のことです。

  現在は、学校現場での会議の資料など、全てワープロ打ち(パソコン)のものになりました。この傾向は、広く社会一般に共通していえることだと思います。ちょっと前までは「青焼き」で「手書き」の味もあったのですが、最近では「手書き」のコピーなどは後からの追加資料ぐらいでしょう。公的な文書は「手書き」はほとんど使われなくなった、といえるでしょう。

  対して、私的な文書はどうでしょう。やはりパソコン、ケータイの普及で、「手紙」を書く機会は激減しました。メールが、手軽しかも早い、という機能性に優れているという特性を考えれば当然でしょう。一部、礼状などは「手書き」がよいということもあるでしょうが。残るは日記、メモ類でしょう。これもパソコンにという人もいるかもしれませんが、思いついたことをさっと書く場合のメモ類までパソコンでということには、まだならないのではということになります。と考えれば、「手書き」の残る道はちょっとしたメモ類及び、日記ということになります。どちらにしろ、私たちの生活から「手書き」の機会は少なからず遠ざかる気がします。

  こうした現状をみると、社会からの要請としては、パソコンを正確に早く打つこと、になるでしょう。パソコンを正確に打つことと、文字を正確に打つことは若干異なります。

  文字を正確に知っていても打ち間違い(変換ミス)という要素が加わるからです。ただし前提として「文字を正確に知っている」ことが必要です。

  「文字を正確に知る」ためには、やはり「手書き」が必要になるでしょう。先日の講義で手書き練習のソフトがありましたが、実際に「書く」という行為が肝要と思います。あのソフトで練習するのは効果的ですが、実際に「書いたものが残り」文章として存在するということは、やはり意味があることと思います。

  現任が高等学校なので生徒というと高校生をイメージしてしまいます。彼らを見ていると、やはり日常生活ではケータイを使ったメールのやり取りが主流で、「手書き」をするのは授業ノートくらいです。国語の時間は、文章の内容理解が中心となり、文字を美しく書くというところまではいきません。高校になると、芸術としての「書道」ということになるのでしょう。「書道」は選択ですから、全ての生徒が履修するわけではなく、国語の教師も書道の先生とは連絡が密ではないので、意思の疎通はなく、正直どんなことを学んでいるのかは知りません。書道室の前の作品掲示を見るのみです。少なくとも自分の授業では、文字を正しく正確にという全体指導はなかなかできません。個別に誤字の指導はすることはあります。

  高等学校は年齢的には、社会に出るのに一番近いかもしれませんが、少子化の影響もあってか大学への進学率が上がっています。引き続き学問をする者が増えています。だからといって「文字を正確に美しく」書ける者が増えているとは限らないのですが。大学になってまで書写学習をするのは専門の学生を除いたら皆無でしょう。高等学校までの学習が重要になってくる訳です。ですが、高等学校の現状は先に書いたとおりです。すると遡って中学校までの書写教育に負う所が多くなるということになります。というか、大学を卒業したけれど、書写の能力なり技術は中学生までのもので社会にでているということになります。実際は、中学生までが「勝負」(なんの勝負か分かりませんが)になる訳です。

  問題は高等学校、大学、そして社会に出るにあたって、その生活の中で「手書き」の意義なり意味がどんなところにあるか、です。見出すことがなければ、「手書き」はますます衰退するかもしれません。パソコンの導入がますます進み生徒に1台となれば、生徒は板書事項を「手書き」することもなくなります。パソコン場面から必要なところを自分のファイルにコピーすればいいのですから。教科「情報」の導入もあり、パソコンがますます身近になる昨今、黒板の文字を書き写すという行為も意外と早く時代遅れになるかもしれません。そこで今一度「手書き」の意義・意味ということです。

  ここに一冊の本があります。原子朗という人の「筆跡の文化史」です*1。まえがきに「私たちの日常の筆跡の実態のさまざまについて、その歴史について、読者といっしょに考えてみたい。」とあります。 原は現在のワープロ普及による「肉筆」の衰退に憂いを持ちつつも次のように述べています。

  「手書き」の意義・意味はこのようなところにあるのではないでしょうか。「素朴で人間的」な行為への回帰、あるいは欲求、があるのではと思います。ワープロで書かれた文章、文字には個性がありません。どれもみな同じ字体、字形です。もちろんゴシック体とか明朝体という違いはありますが。そこには、書いた人の呼吸や息遣いはなかなか反映されません。見た目は「美しく正しい」かもしれません。しかし、人が人である限り心のどこかで「書き手」の人柄や人間性の表出を求めているのではないでしょうか。そのあたりのことを原は述べているのだと思います。

  教室においても、このことを学習していくことが大切です。体験として知ることは、その後の人生に影響を与えるでしょう。特に小学生のうちに体験しておくことでその重要性は学習者個々に認識されるでしょう。小学校低学年の授業への期待は高まるばかりです。しかし、現実的には、指導要領の改訂は授業時間数の削減が全体的な傾向ですから、ともすれば「手本に忠実に書くこと」が重要視され、「手書き」の良さを実感させられる授業が展開されるかについては不安が残ります。

  では、「手書き」の良さを実感させられる授業とは、どんな授業でしょうか。中学校の教員のとき、わずかばかり「書写」の授業を担当しましたが、その時は夢中で何をどんなふうに指導したか忘れてしまいました。(いいのでしょうか。)ただ、やはり技能、技術中心だったように思います。私はそれほど高い技術は持っていませんでしたが。

  良さを実感する、というのは学習者一人ひとりが「書いてよかった。」という気持ちになるということでしょう。技術中心の指導は、ともすれば「もっと上手く。もっと手本に忠実に。」という傾向に陥るでしょう。学習者の練習作品は「朱筆」に染まり、どの部分が学習者が書いたものか分からなくなってしまうかもしれません。指導者が技術の向上を目指して加えた朱書きが、学習者の意欲の減退という思わぬ効果(?)を生み出していないか目を向ける必要がありそうです。「美しく正確に書く」は重要な目標に違いありませんが、心情的な部分(無用な劣等感等)のケアを考慮に入れた指導が求められるのではないでしょうか。原は以下のように指摘しています。*3

  こうした技術偏重ではないかという指摘に対し、反論できる指導を展開していくことで少しでも「手書き」の良さをアピールしていくことで、学習者のその後の生活が充実していくのでは、と思います。パソコンやケータイのメールが利便性に勝っていても、自筆の「味」「良さ」を認識していれば、心をこめる意味や意義の部分で「手書き」がなくなることはないでしょう。