住んでいるところが違うのに、同じ崩し方なのはなぜ?

 

 e-mailにて以下のやりとりをしました。もしかしたら、他の方の参考になるかも知れないと考え、ご本人の許可を得まして、転載する次第です。ひとつの考え方として、ご参照下さい。なお、e-mailのやりとりからプライベートな情報を削除すると共に、一部改変してあります。

(狭い意味での)私の専門外ですので、適切なお答えができるかどうか わかりません。それから、この問題についてきちんと説明しようとすると、 おそらく一冊の本ができるくらいになってしまうと思いますので、その点は ご了承いただけたらと思います。

(狭い意味での)私の専門外ですので、適切なお答えができるかどうか わかりません。それから、この問題についてきちんと説明しようとすると、 おそらく一冊の本ができるくらいになってしまうと思いますので、その点は ご了承いただけたらと思います。

 
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> 草書体は隷書体を簡略する為に出来たと、ある本に書いてありましたが

この点については、諸説あるといってもよいと思います。私は、次のように考えます。
ただし、あっているかどうかは、、、。

書体は、大まかにいって、篆書・隷書・楷書などの正書体と、行書・草書など
の通行書体とにわけて考えることができると思います。そして、草書などの通行
書体は、完成した正書体が簡略化されてできたものではなく、正書体と平行して
できあがっていったと捉えるべきだと思うのです。どちらかというと、日常
用いる通行書体の方が変化が早かったのではないかと推測しています。

次に、どの段階をもって草書の発生と捉えるか難しいと思います。隷書が正書体
として用いられた漢代の文献でも、漢代という記述と秦末という記述とがあり
ます。私は、今見ることができる資料から、正書体である隷書の成立と同時期に
草書も成立していったのではないかと思います。

> 五体字類等をみると、各書人が住んでいた所や時代が違うと思われる
> のに、なぜ大体同じような崩し方になるのか不思議でなりません。

文字を考えるときに、字体と字形とに便宜的にわけて考える必要があると
思います。単純に考えると、字体は文字の骨組みといえます。一人一人が書
く文字の形、字形が多少異なっていても文字としては成立するはずです。
しかし、その骨格である字体が異なっていると、社会的に文字として通用
しないこともあり得るはずです。

確かに、中国の戦国時代などの資料によりますと、地域によって字体までも
が異なっている例があります。それが後の時代に、広い地域で統一された
字体が使われるようになるのは、いくつかの理由が考えられそうです。

草書に限定することなく、説明しますと、次のようになりそうです。
一つは、意図的におこなわれる場合で、為政者、たとえば秦の始皇帝に
よる文字統一などがそれに当たると思います。また、官吏になるためには、
適切な字体で字が書けなければなりません。そのためのテキストなども
作られました。また、非意図的な面としては、あるうまいと評判の人がいる
と、その人の字を印刷(石版なども含む)して練習の手本となることもある
わけです。

以上をまとめますと、ある書体が、ひとつのスタイルとして確立されるまで
は、何種類かの字体・字形が使われていたと考えられますが、いったん一つ
のスタイルとして確立されると、地域や時代を超えて共通のものが使われる
ようになる、、というお答えでいかがでしょうか。

たとえば楷書の場合、現在の手書きの字形は、唐代からそれほど大きな変化が
なく、第二次世界大戦後に当用漢字表が出されるまで、字体も似たようなもの
でした。その間、1400年という月日が流れ、中国と日本という地域差もあるの
に、、ということになります。

ヨーロッパなどですと、ルーツは同じであり、現在でも似てはいても、異なる
言語がたくさん使われていますが、中国はあれだけ広い国でありながら、
(発音は違っても)文字としては共通です。それは、表意文字である漢字が
統一された字体で用いられてきたからもいえそうです。

草書の発達とその使用について、短くてわかりやすい文献としては、
次があげられます。お持ちでなければ、図書館等ででもお読みいただけたら、
くわしくご理解いただけるのではないかと思います。

	仲川恭司「草書の歴史 発生とその変遷」
		/墨 書体シリーズ3『草書百科』, pp.53-60, 1989.12, 芸術新聞社