再度「字は人をあらわす」を考える            

 


「字は人をあらわす。」この出典を見つけることができずにいるのだが、「書は人となりをあらわす」[]ならば、蘇東坡の「観其書有以得其為人」[]あたりにたどり着く。現代の日本においては、「書は〜」よりも「字は〜」という表現の方が、一般に知られていると思われる。この文言を具体的に解釈し、考えてみたいというのが、本稿の趣旨である。

 

こういった考え方は、漢字文化圏の特徴のように思われるが、そうではない。黒田[]によれば、ヨーロッパにおいても、文字から人の性格等を読み取ろうとする伝統があったことがわかる。元は本人の文字かどうかを判断したり、誰が書いたものかを判断したりする筆跡鑑定から派生したもののようだが、今も、民間においては文字から人の性格や適性を判断することがおこなわれている。この場合は、「字は人をあらわす。」を、「字をみることでその人の性格や適性が判断できる」と解釈することができるだろう。日本でも筆跡心理学や筆跡性格学といった研究があったが、現在は民間の団体でおこなわれる程度になっている。[]

 

私が関わった「書写指導の目標論的観点から見た筆跡と性格の関係について」[]は、手書きされた文字から性格を安易に判断することの問題点を指摘し、文字から受ける印象の一致について述べたものである。本稿に、再度と付けたのは、これを意識したためである。その後、どのように考えるようになったかということなのだが、実は基本的なところは変わっていないようにも思う。もちろん、表現の仕方や、書き方が不十分であることの反省はしつつである。

手書きの字には、書いた人の何らかの特徴があらわれる。「字は人をあらわす」は、「手書きされた文字は、書字行為の結果であり、人の行為としてその人の特徴や動作等の特徴が表出されている」と解釈する、当たり前のようなことが私の考えである。その人の性格や人格を推定できるのかどうかはわからないが、巧拙や人格といったことだけにとらわれることなく、表出されていることを受容してはどうか。また、研究としてはその表出・受容がどのように機能しているかを扱う方向性が考えられる。相変わらず言い切れていない気もするが、多少は明確になっただろうか。

 

あらためて東坡題跋を見ると、先の続きは「則君子小人。必見於書。是殆不然。」と、書を見ても、書いた人が君子かどうかはわからないとしている。そして「然人之字画。工拙之外。蓋皆有趣。」と、その人の字や文字の線には、うまい下手といった視点以外に、みなそれぞれに趣きがあると続けている。また別の箇所には「言有弁訥。而君子小人之気。不可欺也。」がある。人によって話し方が、なめらかな人と、朴訥な人がいるが、それが君子かどうかを判断するものとはならないと解釈できる。巧拙以外の特徴、音声言語との対比、この部分をみれば、今からおよそ千年前、宋代の蘇東坡に学ぶところ多しといえそうである。

(上越教育大学国語教育学会 会報 第四十四号 平成二十三年七月)



[] 新谷「蘇東坡の書と思想」(金沢大学卒業論文、一九九五)

[] 蘇東坡「東坡題跋」/『中国書論体系』第四巻:宋一、一九八一、二玄社

[] 黒田『書の心理―筆跡心理学の発達と課題 』、一九六四、誠信書房

[] Wikipediaより「筆跡学」の項目、二〇一一.〇七現在

[] 塩田ら、『書写書道教育研究』一二号所収、一九九八